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策士・梶原景時

*六十六名の弾劾状

梶原景時が一族三十三騎とともに、領国・相模一之宮にある砦を捨て、京に向けて秘かに出発したのは、正治二年(1200)の一月二十日。  主人頼朝が死亡して一年、かつて幕府随一の寵臣といわれた梶原景時の逃避行だ。
御霊神社・・・梶原の鎮守(鎌倉市・梶原)
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景時が将軍頼家から、御家人六十六人の連名による訴状を見せられたのは、前年の十一月のこと。  かねてから景時の権力志向性に反発する有志一同が、景時を弾劾するもので将軍頼家に詰め寄ったものである。・・・・・これを見た景時は一言もなく引き下がり、翌朝には、領国・一の宮(神奈川・寒川町)に引きこもったという。

景時の讒訴癖については、その為に犠牲になり、また多くの迷惑をこうむったものが少なくない。九朗義経の悲劇は有名だが、畠山重忠も被害者の一人だ、景時の為に、あやうく謀反の罪を着せられるところであった。 服罪の後、領国に帰り静養していた重忠を、一族を集めて反逆の意図ありと讒訴したのである。

*重忠の代官が起こした些細な罪で、四個所もの所領が没収される厳しい処罰であった。・・・このために重忠が頼朝を恨んでいるような風評が流れていた。

しかし、重忠は頼朝の前で一言の弁解もせず、景時の讒訴を終始無視し続けたことは、多くの御家人たちから共感を得ていたようだ。

そのような梶原景時を当の頼朝はどのように観ていたのでしょうか。・・・自分の意中を素早く察知する景時を、幕府の基礎固めのために、自分に代わる憎まれ役として重用していたことはほぼ間違いのない処でしょう。  寿永二年、上総介広常を暗殺したときも、頼朝は「自分は知らぬこと」として、景時一人に責任を押し付けたという。

回転の速い才智と讒訴癖は、いかにも京都の公卿ふうであり、坂東での景時の人気は非常に悪い一方、京都では天台座主慈円などが「鎌倉本体の武士」と賞している。  慈円は摂関家の出身で九条兼実の弟だから、高官との交際範囲も広く、公卿の間では景時の評価は意外に高かったらしい。   (続)

*九条兼実・・・・・鎌倉時代初期の公卿、関白・太政大臣を歴任。  九条家の祖。・・・頼朝が鎌倉に「武家の政権」を開くにあたり頼朝と協力関係にあった。

平成二十六年甲午・庚午・壬寅
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