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源氏に賭けた・海の武士団、三浦氏

*三浦氏発展の基盤

相模国三浦(御浦)郡に発展した武士団三浦氏は、平忠頼の弟、村岡五郎忠道を祖とする。  源頼光(minamoto・raikou)に仕えていたことが知られており、坂東平氏の中で最も早い時期に源氏の家人となった人物である。
衣笠城址・石塔(横須賀市・衣笠町)・・・三浦氏の居城であった。
DSCN0558.jpg

そのためか、三浦氏は忠通以後も源氏との関係が深く、後三年の役には忠通の孫三浦平太郎為継が義家(八幡太郎)の私兵として従軍している。  「吾妻鑑」・・・建保元年5/2条。

*後三年の役・・・・・平安時代後期・前九年の役の後、東北地方の覇者、清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦い。

頼光に仕えた忠通は、多くの郎党を伴って京都と東国の間を頻繁に往復したらしいが、為継の頃も同様で、弟の為俊が白川上皇の目に留まって北面の武者となり、検非違使佐兵衛尉を経て、駿河守に任じられている。    延慶本平家物語。

先の話だが、鎌倉幕府が成立してから、御家人の中から国守に任官するものが現れ、その中でもとりわけ早い時期(承久元年)に三浦義村が駿河守に任じられているのは、その為俊の先例があったかだとされる。

三浦氏は天治年間(1124~26)に義明が相模国雑事(zouji)にたずさわり、国衙の在庁として三浦介(miuranosuke)を称するようになったことはよく知られている。

三浦氏の先祖の忠通は村岡五郎と称したが、 この村岡は武蔵国大里郡村岡である。三浦氏関係の殆どの系図によると、三浦の地にはじめて居住して地名を苗字としたのは忠通の子為通であるが、「康平六年(1063)、源頼義より相模国三浦郡を宛がわれ、城を衣笠山に築き、始めて三浦を称す」 という意味の説明を付したものが多く残される。

ちなみに、「吾妻鑑」建保元年(1213)、5/2条には、「三浦平太郎為継、八幡殿(源義家)に属し奉り、奥州・家衛を征せしより以降、飽くまでその恩禄を啄ばむところなり」 とある。  いずれにしても、三浦氏は為通ないし為継の代より、源氏から経済的恩給を受けていたことは間違いないようだ。

*三浦氏の水軍

十二世紀末における三浦氏の所領は三浦一郡に留まるが、その存在基盤として見逃すことが出来ないのが、浦賀水道を中心とする制海権を掌握していたということであろう。  残念ながらそれを証明する史料は見つかっていないそうだ。しかし、有力な傍証がある、治承四年、頼朝の挙兵に呼応して衣笠城を攻め落とされた三浦一族が、海路安房へ脱出していること。   ここで態勢を立て直した頼朝軍の中で、三浦次郎義澄が案内したとある。
(吾妻鑑)
石橋山合戦に敗れた頼朝が再起を期して安房に上陸したとき、同国の武士として最初に参向した安西氏が三浦氏の支族と伝えられている事。  (三浦系図)

以上は、三浦氏が安房国への進出と勢力範囲をの動きを示した例であるが、その場合、当然のことながら、船舶とそれを運用する海人とを徴用できる態勢が準備されていることが必要である。したがって、三浦氏は常に動員可能な水軍力を保有していたことになる。

さらに、三浦氏はその水軍力を効果的に機能させるために、三浦半島対岸諸国の武士団とも緊密な関係を結んでいたことが解ってきました。

三浦半島は関東沿岸諸国の海上交通を扼する重要な拠点であり、三浦氏武士団の水軍力への依存度は相当大きかったに違いない。当時、国衙は国内の船舶や水夫を強制的に動員・徴発する権利・支配監督権を有していたと思われる。

衣笠城が落城した後、三浦氏一族が海路安房への脱出を果たしたのに対して、大庭景親を大将とする平家方の軍勢がこれを追撃しなかったのは不可解であるが、すでに兵船や海人達が三浦氏に抑えられ、追撃したくとも出来なかったのが真相であろう。   (終)

平成二十六年甲午・辛未・壬子
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