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平家と結んだ大庭氏

*大庭氏の成立

石橋山合戦で平家方(政府側の追討軍)の総大将となった大庭三郎景親について、いままでの研究では鎌倉政権の成立という側面から見てきたと思われますが、彼が国衙と関係した形跡もないのに、どうして国内の武士団を統率し得たのかということや、平氏政権の東国支配の中で、どのような役割を担ったのかといった問題はあまり考えられていなかったように思われる。

大庭氏の系譜については、諸系図間の異同が多く、正確な所は解りませんが、ほぼ一致する処は、大庭氏が三浦氏同様に桓武平氏の出身で、源頼光(minamoto・raikou)の四天王のひとりであった村岡五郎忠通の子孫であるということである。・・・・忠通はまた頼光の弟で、東国に於いて武名の高かった頼信にも仕え信頼を得ていたようだ。(今昔物語)

頼信の子頼義が、もともと坂東平氏の嫡流であった平直方の女婿となり、鎌倉の屋敷を譲られたことは、相模国の武士と源氏との関係をさらに緊密なものとし、前九年・後三年の役では、それぞれ頼義・義家軍の中核は相模国の武士が構成したと考えられる。  この中で忠通の子孫の活躍もめざましく、後三年の役(1083~87)では、弱冠十六才の鎌倉権五郎景正の大活躍が記録されている。  (奥州後三年記)

この剛勇無比な鎌倉権五郎景正こそ、大庭氏の祖である。  景正が「鎌倉」を苗字にしていることから、相模国鎌倉郡が彼の本拠地であったことは間違いない。  その後、彼の子孫が郡内及びその周辺に自己の所領を開発し、武士団としての発展を遂げていったのである。

*源義朝の大庭御厨侵入事件   (頼朝の父)

長治年間(1104~06)、景正は高座郡鵠沼郷(藤沢氏・鵠沼)を中心とする一帯の荒野を伊勢大神宮の御厨とする条件で開発を国衙に申請し、許可を得たので浮浪人を招き寄せて開発に当たった。

永久五年(1117)に至って、この土地を大神宮領として寄進し、大庭御厨が成立した。  これによって景正の子孫は下司(gesi)(現地管理者)として実質的な領主権を手中に収め、下司職を継承する嫡流は大庭氏を名乗ることになる。

大庭御厨が成立した十二世紀初めの頃、源氏内で内紛が相次ぎ、嫡流の為義は院政権から疎外され受領にもなれないという状況に陥っており、かつて源氏に従属していた地方の武士たちも源氏との関係を弱めていきつつあった。  また、源氏と最も強い関係にある相模国に対して、白川院はその近習で北面に精通した藤原盛重や源重時を国守に任命するなど源氏内の分断を図った形跡があり、大庭氏も徐々に源氏との関係に距離を置くようになっていた。  (平氏政権期・相模守)

受領(zurixyou)・・・・・国司四等官のうち、現地赴任の行政官の筆頭。

こうした状況を打開するために、坂東武士団の源氏再服属を強硬に推し進めたのが、為義の子義朝(頼朝・父)である。彼は、「上総曹司」と呼ばれたことから、坂東、とりわけ上総国で成長したと思われる。  (天養記)

康治二年(1142)、義朝は下総国相馬御厨をめぐる両総平氏の千葉・上総間の内紛に目をつけ、上総常澄に加担して千葉常重から同御厨の下司職を奪い取り、同時に軍事的にも千葉氏を服属させることに成功している。・・・房総で成功した御厨介入の次の矛先は大庭氏に向けられることになる。

天養元年(1144)、当時、鎌倉に住んでいた義朝は、相模国・目代(国守の代官)源頼清と結託し、大庭御厨内鵠沼郷が鎌倉郡に属する公領であるという口実をもうけて、郎党を侵入させ、大豆・小豆等を刈り取らせたのみならず、郷内の住人にも危害を加えたという。

これに対して大神宮側は、太政官へ提訴を行っているが、この訴訟手続きが進められている最中、義朝は国衙の軍事警察部門を担当し、すでに義朝の配下にあった三浦氏・中村氏などを御厨内に乱入させた。 この時に、義朝の軍に参加した目代・在庁官人の軍を加えると、ゆうに千騎を超えていたという。

この様にして南坂東の武士団の再編成を進めてきた義朝は、その後在京して鳥羽院の信任を得て、父の官職・検非違使・左衛門大尉を超えて下野守に任じられ「都の武者」として重きを成した。  この頃から鎌倉の館には長子・義平が居住し、坂東における勢力拡大にあたった。  (続)

平成二十六年甲午・辛未・乙卯
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