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(続)大幹線路・朝夷奈切通し

*上総国朝夷奈郡・・・和名類聚抄に記載あり

「和名類聚抄」の安房国には朝夷奈郡(asainagun)の名がみえる、 朝夷奈(朝比奈)という名称は、古代より安房国・上総国の地名と不可分な関係にあったことを知る。  その様な意味で朝夷奈切り通しの開通は本来のあるべき姿に戻ったと云うこともできる。
朝夷奈切り通し金沢口(横浜市・金沢区)
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鎌倉から金沢港に直行する道路の要衝が、「朝比奈道」(朝夷奈切り通し)と称せられる部分であるが、そこはそれほど高峻ではないにせよ、本来は山越えで実用上不便きわまりない山道だったので、種々苦心の結果、そこに大きな切通しを造成したのである。  この切通しがなければ、幕府にとって六つ浦(mutura)(金沢港)はほとんど無用の長物となってしまう。

幕府という大所帯になると、今までのような細々とした間道では用が足りなくなっていた。  特に有事の際、何百騎という大軍の通過が見込まれ、その間道では対処できないことになると、著しく不利な状況が発生することになる。

しかしこの切通しは工事が困難を極め、本格的に開通したのは三代執権・北条泰時の時代になる。  山越えの難儀がようやく解消された。  「吾妻鑑」の記事にある工事開始の指令に注目したい。

*仁治元年(1240)11/30条、  鎌倉と六つ浦の津(金沢港)との間に、始めて道路を設ける必要があるということをお定めになった。 今日縄を曳き丈尺を当て、御家人等に工事を分担された。 明春三月末までに完成しなければならない旨、御下命があった。 武州(泰時)が工事の現場に監臨なさったのである。

記録によれば、上記の工事の予定が発表されてから、四か月以上経過しても一向に進捗しなかったらしい。 幕府・執権による命令が、四か月たっても始まっていない。・・・・・同じ命令が改めて公布され、完成予定を一年間延期し次の年の三月としたのである。  ここにもまた執権自らが現場に臨み、諸人群集し、土石を運んだとあります。

さらに記録によれば、二度目の命令が出てから一か月以上経過しても、まだ工事は停滞していた様子である。  執権職の泰時がたまりかねて、自分の乗馬を持ち出して、現場に出かけては土石の運搬を援助したという。執権・泰時が積極的に工事に加わっていることを重ね重ね強調していることに注目したい。

万難を排してまで、切通しを貫通させようとする鎌倉幕府の激しい意気込みが伝わってきます。 (続)

平成二十六年甲午・辛未・甲子
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