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大幹線路・朝夷奈切通し

*朝夷奈切通し・開通

「吾妻鑑」建長二年(1250)6/3条、山内並びに六つ浦等の道路の事、先年たやすく鎌倉に直通させるために、険悪な道を改修したのであるが、当時まだ土石が通過道路に埋没していた。  要するにまだ開通しただけで道路と云える状態ではなかったようだ、従ってあらためて工事命令が出された様です。
横浜・横須賀道路の下を通過する朝夷奈道路(横浜市・金沢区)
s-2010_1024_122339-DSC01107.jpg

着工から十年、ようやく完成した切通しは一応完成したのだが、まだ不十分な点が残っていたので、総仕上げの命令が出た。 これでようやく工事が完了するわけである。やはり足かけ十年がかりの大事業だったことになる。

ここで特に取り上げたのは、「吾妻鑑」の記録に、「険阻な道を改修した」とある事です。  十年前、この工事を開始した時、すでに山越えの間道があったことを示唆している。  鎌倉と金沢港とを幹線は、細々とした素朴な形のまま早くから存在していたことになる。 自然発生した古い抜け道だったのでしょう。

いま、この切通しを訪れてみると、側壁の崖の上に熊野神社が鎮座しています。  切通しが開削される前、その神社の前を山越えの古道が通っていたことが覗える。  神社は峠の守護神だったと思われます。 そのような細い峠道を軍・官用に耐えられる程度の公道に仕上げるという事業が、執権北条泰時の掲げた大目標であった。

*切通し開通の真価

金沢地区は古くは六つ浦(mutura)といわれ、古記録にも多くその名で出てきます。 六つ浦の重要性を考えることは、結局は朝比奈切通しの価値を検討することになります。  両者を切り離して考えることはできません。その様な観点から鎌倉幕府にとって、六つ浦がどんなに大切な地域であったかを検証する。

「吾妻鑑」等によれば鎌倉は様々な災難に襲われたことが記録に残ります。その都度熱心な祈祷が行われている。祈祷の実態を調べると、鎌倉の四周の地域を含めて、幕府の視野はかなり広範囲に拡大されていたことが解ります。 その様な視野の中で、六つ浦がどういう位置を占めたのか、鎌倉と六つ浦とを直結する切通しがどの様な意味を有したか等を観て行きたい。

更に「吾妻鑑の記録から、祈雨のために七瀬の祓いをしたといわれる、ここに云われる七瀬のうち、金洗沢は行合川河口から西の七里ヶ浜の海岸で、腰越付近の古い地名と思われる。  六浦の金沢とは別である。・・・・・いたち川は頼朝が奥州討伐に出陣するときに渡った「出で立ち」がなまったものと思われます。横浜市・栄区を主に流れ柏尾川に合流し、江の島付近に流れ込んでいます。・・・・杜戸(森戸)は現在の葉山町。  結局七瀬というのは鎌倉海岸全域を中心として、三浦半島の六つ浦や葉山の地域を抱合していることになる。  鎌倉及びその周辺をかなり広い視野でとらえていることが解ります。 六つ浦はそういう視野の中で、重要な一角を占めていることを重要視したい。 (続)

平成二十六年甲午・辛未・丁卯
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