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頼朝譜代の御家人・比企氏

*源家と比企氏

比企氏は武蔵国比企郡を本拠とする家門で、源頼朝の挙兵以前から、引き続いて源家の為に献身的に尽力した。  比企禅尼は義朝(頼朝・父)に従って上洛し、頼朝の乳母となる。  平治の乱後は比企郡に戻り、伊豆に配流となった頼朝を支援した。  比企禅尼の養子となった能員(yosikazu)もよく頼朝に仕え、御家人の上席として幕政に関与。
比企能員邸・旧跡(日蓮宗・妙本寺)  鎌倉・大町
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能員(yosikazu)の娘、若狭局は源頼家の子一幡(itiman)を生んだ。 能員は将軍頼家の外戚として、家運の隆盛を計ったが、やがて北条氏と対立、関係が冷却し、深刻な問題を抱えるようになった。  まずは初めに、源家と比企氏との間の強いきずなを示す記録から見てみよう。

「吾妻鑑」・寿永元年(1182)7/12条、御台所(北条政子)御産の気によって、比企谷殿(比企能員邸)に移られた。  御輿が用いられた、予めその場所が選定されており、千葉胤正・同胤頼・梶原景季がお供に祇侯した。更に梶原景時が御産の間の雑事を指図した。

能員の養母比企禅尼が頼朝の乳母だったので、自然にこの様な因縁が発生した。  実際、禅尼は能員の伯母なのだが、後に養母となったのである。  やがて能員の妻が若君(頼家)の乳母となり、また、娘の若狭局が頼家の正室となって一幡を生むことになる。 このような経緯を見てもわかるように、源家と比企氏とは家庭的には切っても切れない深い関係を持っていた。  見方によっては癒着状態にあったともいえる。 他の有力御家人たちから批判される一面が有ったかも知れません。 それがのちの比企氏滅亡に連なる一因ともいえますが・・・。

更に「吾妻鑑」同年10/17条、永暦元年、頼朝が伊豆国に遠流となっていたときに、比企禅尼は忠節を尽くそうと、武蔵国比企郡の自邸を請所とし、夫の掃部允(kamonnojiyou)を伴って参向した。 掃部允は伊豆国に下向し、治承四年の秋に至るまで二十年の間、世継ぎの世話をした。  将軍・頼朝が繁栄の時を迎え、何かにつけて昔の奉公に報いるため、比企禅尼に甥の能員を養子にさせて、その能員を挙用した結果、前述したように結束を強めて行ったのでしょう。 (続)

平成二十六年甲午・壬申・癸酉
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