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譜代の御家人・比企氏

*比企氏の家運

正治元年(1199)、1月頼朝は死んだ。  それによって比企氏の運命は大きく変わり、四年後の建仁三年(1203)9月、一族ことごとく滅亡することになる。 世の無常とはいいながら、あまりの変化に驚くばかり、そこに至る前、比企氏の家運はまず次のようなことから傾き始めるのである。
比企能員一族の墓所(日蓮宗・妙本寺境内)(鎌倉・大町)
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建仁三年8/27条、将軍を継承した源頼家の病気が悪化した時、次期将軍職に目をつけていたものは、比企氏のほかにもいた。 いうまでもなく、実朝(頼家・弟)の背後に控える北条氏である。  時政・政子・義時という強力な陣容である。 それらが比企氏の利害と両立するわけがない。 一方が立てば必ず他方は倒れる。 北条氏としては比企氏の繁栄を許せない。 両立することは不可能な状況だったに違いない。

北条氏側としては是が非でも頼家の嫡子・一幡の権限を消滅しなければならなかった。 頼家の病状がいよいよ切迫すると、いきなり天下を実朝と一幡とで二分させたのだが、まだ生ぬるかったようだ、そのすべてを一幡から奪取するに越したことはないと考えたに違いない。  そのことに関して奇妙な記録に気付かされる。

「吾妻鑑」建仁三年9/2条、比企」能員が娘を通じて夫の頼家に訴えたことに、「北条殿を早急に追討する必要があるようです。 凡そ家督相続人以外の者に地頭職を分割するような事をすれば、権威が分割され、互いに挑み争うことは疑う余地がありません。」

「一方は将軍の子であり、他方は弟、一見穏健な措置のように見えますが、かえって国を乱す原因になりかねません。時政の一族に権力が分散されれば、家督相続人(一幡)が生きる道を失うことは、異議を挟む余地がないでしょう。」

将軍(頼家)はこの意見を聞いて驚愕し、能員を呼び、談合に及んだところ、時政追討の件、将軍は一応承諾したという。ところがこの情報、尼御台所を通じて時政に早々密告されてしまった。

北条氏と比企氏との立場はいよいよ抜き差しならない処に至り、激突寸前になっていた。 能員の意見に刺激されて、頼家は北条氏の追討を決意する。 しかし一方でその時の密談の内容をを政子はどのようにして得たのだろうか、あるいは密談などなかったのかもしれません、政子による創作劇のような気がする。  時政を刺激して、奮起させるには有効な創作劇である。

頼朝亡き後の政治の行方は、政子にとっても重大事であったでしょう。  刻々緊迫の度を増す事態に心を病んでいたと察せられる。  頼家といっても大切なわが子であり、一幡は愛らしい初孫である。それらを共に窮地に追いやる計画を実践するのですから、政子の気持が動揺しないはずがない。   (続)

平成二十六年甲午・壬申・丙子
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