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木曾義高と大姫

*人質となった義高>(大姫許婚者)

木曾義仲の子、清水冠者義高が、木曾から鎌倉の頼朝のもとへ送り届けられたのは、寿永二年(1183)3月の事である。この年頼朝は同族の義仲討伐のために十万余騎を率いて碓氷峠を越えた。
木曾冠者義高・塚石塔  (鎌倉大船・臨済宗常楽寺)裏山
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理由は、常陸国にあって頼朝に抗戦した志田義広や、叔父の新宮十郎行家を、義仲が匿った為である。 それでなくても頼朝は義仲に気を許せなかったからである。 義仲はかねてから、兵を上野国から武蔵へまでも、進出させようとしていた。

*武蔵の大蔵は義仲の父義賢の住んでいたところであり、周辺には義賢を慕うものがいるからである。そしてその義賢を不意に襲って殺害したのが、頼朝の兄である悪源太義平であり、頼朝は義仲にとって、親の仇の片割れであるわけだ。そこで頼朝は平氏討伐のまえに、先手を打って義仲に示威運動を仕掛けたのです。

頼朝は義仲に厳しい条件を突きつけた。「十郎行家を引き渡すか、嫡男・義高を婿として鎌倉へ寄こすか、それとも合戦に及ぶか」というものである。いずれにしてもかなり厳しい。

対して、義仲は十一歳になる義高を引き渡すことに同意した。  おそらく胸中は無念の涙で苦渋の決断だと思われる。 その後、義仲の行動は素早く、京都に攻め入った、一日も早く頼朝を出し抜き源氏の頭領となり、そこで存分に見返すつもりだったと思われます。  そのために、京の事情に通じている行家と軍団を温存して、わが子を犠牲にする道を選んだのでしょう。

鎌倉に向かった義高は、同年齢の供を数名従えただけでした。  鎌倉での義高の生活は恵まれていた。  実質は人質でも、頼朝の長女大姫(oohime)の婿である。  当時大姫は僅かに六歳であったが、それだけに二人は雛人形のように皆から愛された。

後に二代将軍となる頼家も、前年の8月に生まれたばかりの幼児であり、もしも歳月が順調に流れたならば後年になって義高は、源氏一門として有効な働きが出来たと考えられます。それが一転して義高を不幸のどん底に陥れたのは、他でもない、父義仲の死である。 (続)

平成二十六年甲午・壬申・乙酉
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