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木曾義高と大姫

*義高の将来(背後にあるもの)・・・

都から平氏一門を駆逐した義仲を待っていたのは、頼朝の義仲追討軍であった。  寿永三年、宇治川の合戦で敗れ、続いて近江の粟津で壮絶な討死を遂げた。

人質の常として直ちに処刑されても当然であったが、・・・・つまり一身上に何らかの変化があってしかるべきところなのである。 しかし、何事もなく平穏に過ぎたのは、おそらく政子のとりなしもあったろうし、頼朝も義高に対し害意のないことを、折に触れて示していたからであると思われます。
大船・常楽寺参道(幕府三代執権・北条泰時菩提寺)・・・この寺院の裏山に義高は眠る。
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それが事件後二ヵ月を経過した頃から、不穏な風評が立ち始めた。頼朝が将来の為に義高の殺害を考えているというのである。  このような噂は、しばしば奥に仕える女たちから広がるものであり、政子の耳にも届いていたと考えられる。

この間、当の頼朝は何を考えていたのだろうか。  やはり頼朝は義高を人質として処刑する意思はなかったのではないかと考える。  彼の周囲を見回すとき、例えば三浦、北条、土肥、畠山氏その他、頼朝と共に天下を取るという大事業を成し遂げた坂東の武士たちは、いずれも相互に濃い血のつながりがあり、彼らの団結を、頼朝はどんなに羨望のまなざしで観ていたのでしょうか。  しかるに頼朝の周囲には頼るべき親族が極めて少ない。  範頼や義経、全成(zenjiyou)にしても一介の浮浪人に過ぎず、ほとんど裸同然で身を寄せてきた者たちだ。

頼朝が他の兄弟たちに冷酷だったことはよく言われる事だが。・・・・・他の御家人以上に遇することは、それだけですでに贔屓になるのである。 しかるに範頼にしても、義経にしても兄弟であることから当然甘えが出てしまい、坂東武士たちが理想とする武家政治の根幹を危うくした為に粛清されたと考えられています。

しかし、義高の娘婿という条件は、当初から頼朝の子と云うに等しい。 もしこれに頼るに足る者ならば、それに勝るものはないはずである。  と同時に一方では、苦節二十年を経て伊豆・蛭ヶ島から挙兵した自分の例もある。将来にわたって義高が謀反しないと保証できる根拠は何もないのである。   (続)

平成二十六年甲午・壬申・己丑
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