FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

木曾義高と大姫

*義高逐電

かくて頼朝はいつ義高の処置について考えたのであろうか。・・・義仲討伐の後、一の谷の決戦があり、後白河法皇とのかけひきやら、論功行賞に寸暇のなかったこともあるだろう。 そのために義高処刑が延引したと考えてもいいだろうが、頼朝に迫ってその決断をさせたのは、北条時政だったと思われる。
栗船山・常楽禅寺参道(第三代執権・北条泰時菩提寺)  寺の裏手に義高の墓所がある
s-2012_0623_091627-DSC02032.jpg
天下統一の為に頼朝を担ぎ上げた時政は、頼朝という貴種はそのままにして、その幹に枝葉の茂るのを好まなかったからだ。一方政子は父時政の陰険な殺しのテクニックを知っている。そして義高の処刑がまぬがれぬと知り、義高の脱出の準備を始めた。

「吾妻鑑」の記述から義高脱出の様子を見てみると、「女房の姿を仮り、姫君の御方の女房、これを囲みて楼内を出でをはんぬ」と記してあるから、義高は大姫と見まごうように女装させられたのでしょう。 もちろん警護の侍たちの目を偽るためである。 それにしても深夜の外出は不審の目が注がれる、義高の輿を囲む女房たちは緊張したであろうが、彼女たちの後ろ盾は、何といっても政子である。  政子の命による八幡宮への大姫朝詣りということにでもしたのであろう。

門を出た一行は、かねての打ち合わせどうり御所を遠ざかると、馬の用意が出来ていた、木曾から義高の供をして鎌倉へ来ていた若者が用意したのか、鎌倉街道を一路北へと馬を飛ばした。

一応、義高の脱出は成功したようだ、御所内には義高の身代わりとして、木曾以来忠実に奉公してきた海野小太郎幸氏が、食事はもちろん義高の逃亡を助けた女房たちが、普段どうり振る舞った。  万一を考え大姫すら部屋には入れず、用心した、しかし努力にも限界があり、やがて警護の侍に怪しまれる事となり、事態は露見するところとなった。

頼朝は烈火のごとく怒り、義高の行方を追補方に命じ、軍兵が諸街道へ散った。  大姫の心中は張り裂けるばかり、無事に逃げられることを祈るばかりでした。 ひたすら神仏に祈っては涙の顔を母の胸に埋めた。 無理もないまだ七歳の少女なのである。   (続)

平成二十六年甲午・壬申・壬辰
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。