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鎌倉幕府創設の功労者・三浦一族

*二つの性格

鎌倉幕府創設に最も功績があり、その後も北条一門に迫る権勢を誇ったのは三浦一族だが、  この一族にはどうやら二つの性格があったようです。
代々の・三浦氏居城衣笠城址(横須賀市・衣笠)
DSCN0558.jpg

頼朝の信頼が厚く、多くの御家人の中から真っ先に三浦介という官職が与えられ、建久三年には頼朝の代行として、鎌倉に勅使を迎えた際に接待役を勤めた義澄(yosizumi)のごとく、温厚篤実なタイプがその一例である。

義澄の子義村(yosimura)も、とかくの風評はあるがやはりこの部類に入るだろう。 一族の和田義盛(yosimori)との盟約を裏切って「三浦の犬は友を食う」とまでさげすまれたが、自らは事をかまえず、大勢に順応しながらじっと時を待つ謀略家であった。  そしてその子泰村(yasumura)も幕府の中枢にあって評定衆を勤め、時に感情に走って争いごとをおこしたこともあるが、それでもまず軌道を外れる男ではなかった。

**評定衆・・・・・鎌倉幕府・執権、連署とともに幕府の政務や訴訟にあたる役職

しかし一方では、我が子、我が孫の犠牲となり、衣笠城で八十九歳の老腹切って自害した義明(yosiaki)や、義明の孫和田義盛(wada・yosimori)のごとき、武士の意地をたてて自害した激情家ともいうべきタイプがある。

宝治元年(1247)、に名門三浦氏を滅亡の淵に追いやったのもこの後者の方で、泰村の弟光村(mitumura)の直情が直接の引き金になったようです。   (宝治合戦)

*二つの勢力

不慮の死を遂げた将軍実朝の跡を継いだ九条頼経(kujiyou・yoritune)(摂家将軍)は、二歳の時に京を出て二十五年間、征夷大将軍に任じられてからでもすでに十八年余りを経ており、傀儡将軍とはいえ、名目上は鎌倉の主であり、北条家の上にあり、それだけに側近く伺候する者も多く、いつしか北条家の執政に不満を抱く御家人たちが、自然に御所に集まるようになった。 そして 鎌倉に二つの勢力の対立が生じつつあった。

当時の執権北条経時(tunetoki)はそれを恐れて頼経を廃し、 その子頼嗣(yoritugu)を将軍職に押し上げた。頼嗣は僅か六歳である。そのうえ翌年には十六歳になる経時の妹をめあわせている。  七歳の将軍と十六歳の花嫁である。どう考えても不自然であるが、それだけ急速に将軍家と北条氏の融和を図る必要があったのであろう。

「吾妻鑑」には、この頃転変地変が続き将軍自身が譲位を思い立ったように記述されているが、当時の支配層の大方の見方は、不自然な将軍職の継承だったに違いない。 それというのも、当時誰しもが気にしていたのが、北条一門ではあるが名越氏の動向である。  執権・経時は前執権・泰時の孫である。泰時の子、時氏が早世した為に執権職が孫にまわったのだが、まだ十九歳の青年に過ぎず、泰時のすぐ下の弟、名越・朝時(tomotoki)が執権職を継承してもおかしくない。 おそらくはそれを一番期待したのは将軍頼経だっただろう。 名越朝時が側近ナンバーワンだったからだ。  しかし、朝時はこの噂を恐れた。  もともと兄泰時とは不仲であり、その様な噂が身を亡ぼすことを知っていたからだ。 そして泰時や一門の噂を晴らすために、泰時が死ぬ直前に出家して野心のないことを証明した。

しかし、噂は決して消えることなくくすぶり続け、その結果頼経が将軍職を譲らざるを得なくなったことが真実だと思われます。  「吾妻鑑」には、天変地異が続いたためと記述されているが、明らかに不自然だ。  執権・経時は将軍交代という大事を成し遂げた二年後に二十三歳という若さで病没しています。  この時経時の遺児二人が幼少の為、弟の時頼に執権職を依頼したが、これがいよいよ名越氏に火をつける結果となった。(続)

平成二十六年甲午・癸酉・丙午
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