FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

幕府創設の功労者・三浦氏

*三浦泰村・光村兄弟

リポートが少し脇道にそれていますが、もう少しそれます。・・・・・執権・経時が死亡してからひと月もたたない頃、昼前から鎌倉中に原因不明の騒動がおこり、間もなく噂を聞いた近国の武士たちが続々と鎌倉に集まった。 そしてこの騒動はしばらく続き、甘縄の安達義景(yosikage)邸から中下馬橋を中心に武装した兵士たちがひしめいた、戦乱を避ける市民たちが家財道具を担いで右往左往したという。
下馬・石塔(鎌倉・大町下馬四つ角)付近
s-2010_1112_104446-DSC01168.jpg
しかし、この争乱の結果はあっけなかった。  誰もが何のための争乱か解らないうちに、名越光時(nagoe・mitutoki),(名越朝時(nagoe・asatoki)の長子)が出家して恭順の意を表したのである。 ということは名越光時が首謀者で、幕府転覆を企てたという事になるのだが果たしてそうだろうか。

執権職を継承した北条時頼側が機敏に反応して、時頼邸を固め光時を牽制した。 事態の不利を悟った光時が髪をおろして時頼に帰順し、光時の兄弟たちも野心のないことを誓った為、騒動が収まったというところが真相であろう。  光時は越後守を罷免され、伊豆への配流が決まり、前将軍も失意のうちに京都へ強制送還された。

この事件は「寛元の乱」と呼ばれる事件であるが、この事件を通して三浦一族は、泰村の弟で前将軍の寵臣であった光村が深く関わっていたものの、光村自身も泰村ら兄弟にも何の咎めもなく、北条時頼邸における「神秘の沙汰」に泰村も参加している事が「吾妻鑑」の記述からも判ります。

*神秘の沙汰・・・・・執権邸における参会、参加者・北条時頼・北条政村・北条実時・安達義景等得宗側近

時頼には三浦一族に対する警戒心が萌ししていたのでしょう。  三浦泰村を自邸に招き、当時京都・六波羅探題を勤めていた泰時の弟、北条重時を鎌倉に呼び戻したいと相談したところ泰村が即座に反対したという。  こうした状況で泰村と時頼の関係はかなり微妙になったと考えられる。

三浦泰村という人物を「吾妻鑑」の記述から調べますと、かなり気性が荒かったようで、些細な事からトラブルを引き起こしていたようです。 例えば、将軍の前での射芸の見証(判定)で争ったり、御所内で行われる闘鶏会が開かれた際にトラブルを起こすなど数多く見られます。  生前の泰村との喧嘩が原因で出家するものまで現れた。三浦泰村が宿老三浦氏の家格をいかに誇りとしていたかを示すものと思われます。

しかるにこのような泰村の尊大な態度は、周囲の人々の批判の的となり、やがて泰村の惣領家が幕府内で孤立せざるを得ない状況を招くこととなっていった。 そしていわゆる「宝治合戦」へと引き込まれていく、三浦介として相模国に君臨していた状況の崩壊、つまり相模国の一般武士が三浦介の差配にもはや従わなくなったことを意味しています。  現に宝治合戦の初期の段階で執権・時頼邸の警護の一部にこれらの武士達が含まれていたという記述もあります。

執権・時頼の狙いはただ一点。 宿老三浦一族そのものの排除にあったことは疑いない、開幕以来三浦氏は宿老筆頭として並み居る御家人に対する影響力は大きく、何よりも宿老たる地位は鎌倉殿(将軍)を支えることを期待され、現に泰村の父義村は、将軍頼経に対し宿老として奉仕しており、泰村の弟光村も頼経とは幼いころから「側近」の関係にあった。 泰村自身もいつ何時将軍と組んで北条氏の築いた「得宗権力」への足場を危うくするとも限らなかったのである。     (続)

平成二十六年甲午・癸酉・戊申
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。