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湯河原の土肥一族

*海辺の雄族

相模国湯河原の土肥(足柄下郡湯河原町・真鶴町)に本拠を持っていた土肥次郎実平(doijirou・sanehira)は、三浦一族に劣らず頼朝の平家打倒の旗揚げを助けた主要人物である。  もし土肥実平はじめその一族がいなかったら、その後の頼朝の勝利はなく、鎌倉に幕府を設立した頼朝が建久三年に征夷大将軍の地位につけなかったといってもよい存在だった。
鎌倉幕府最初の御所・大蔵幕府跡旧蹟(鎌倉・雪ノ下)
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湯河原の御庭平(oniwadaira)と呼んでいる場所が土肥氏の居館が鎌倉時代にはあったと推定されている、後に土肥城が築城されるが室町期から戦国期に築城されたものと伝えられ、城からは房総半島、三浦半島、その手前には大磯、二宮、国府津(kouzu)、小田原の海岸線から真鶴半島。 南には伊豆半島、伊豆大島といった展望があった。

城址城山の尾根は箱根の大観山に連なる狭い尾根状の道で要害な地形である。 実平は、ここを館の詰めの城、城は砦と考えていたのであろう。  湯河原は、気候温暖な肥沃な地、土肥郷と呼ばれていた頃から、地域住民は安定した穏やかな暮らしをしていたことが覗える。

伊豆の韮山で挙兵した頼朝が、平家討伐の陣を構えようとした地点は、早川荘早川尻であったが、背後が海になる地形の為不利になると進言したのは、実平の嫡男・小早川遠平(kobayakawa・touhira)・(土肥遠平)であった。地理的条件を知り尽くした遠平の見解を頼朝は採用し、石橋山に変えたと云う。

攻め寄せる平家方軍勢は、大庭景親(ooba・kagetika)を大将として三千余騎。  それに比べて頼朝方は三百余騎にすぎない兵力であった。  この合戦で、岡崎義実(okazaki・yosizane)の嫡男・真田与一義忠(sanadayoiti・yositada)は討死した。

*真田与一義忠・・・・・石橋山合戦で先陣を任され戦死。 頼朝はその死を悼み証菩提寺(横浜市・栄区)を建立。

石橋山合戦で平家方に敗れた頼朝勢は、実平の案内で山続きに土肥の椙山(sugiyama)へと逃げ込んだ。 土地勘のある実平に導かれた頼朝は大杉と呼ばれる洞穴に身をひそめた。 次に身を寄せたのが箱根権現、しかし、権現従業者の中には敵方平氏へ心寄せる者がいることを知って身の危険を感じ、再び椙山に戻った。 逃亡中の頼朝主従の食物はどうしていたのかというと、実平の妻たちが運び続けたという。 地元の実平関係者や寺社勢力、山伏たちのサポートが有ったことは充分に考えられる。

椙山の大杉の洞穴に頼朝が潜んでいた時に、大庭景親と行動を共にしていた梶原景時(kajiwara・kagetoki)が付近を捜索、景時の予測は的中し潜んでた洞穴を探し当てられた。  しかし景時は自ら進んで洞窟を捜索「あるのは蜘蛛の巣ばかりだ」と言って同行した侍達を油断させ別の山に向かったという。  その時の景時の行動は、頼朝に対し好意を寄せていたような節があり、意識的に見逃そうとしていたと考えられている。  (続)

平成二十六年甲午・癸酉・甲寅
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