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頼朝以後の小田原

*小田原城主・伊勢新九郎長氏>(isesinkurou・nagauji)

小田原城主だった大森実頼の娘は、関東管領・鎌倉扇谷の上杉持朝(motitomo)の子上杉高救(takahira)の妻になっている。 そして三浦介・義同(yosiatu)を生んでいる。  三浦一族の時高に子がなかったため、時高は三浦氏の将来をこの義同を養子として迎えることで三浦氏の安定を計ったのである。
代表的な鎌倉の「やぐら」  常盤・タチンダイ
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城中から落ち延びた大森藤頼たちは、平塚の真田城に入った。  この真田城は、頼朝の時代には三浦義明の弟岡崎四朗義実の嫡男・真田与一義忠の領地であった。 いわば同族のいる領地を頼って、大森氏は逃げ込んだのである。 この頃の城主は、三浦介義同(三浦同寸)でした。 義同の母が大森氏の出身であったからと思われる。

真田城へ移った藤頼たちは、三浦勢と共に何度となく防戦した、真田城の守りは堅固で、こののち三年間にわたって戦いが続いたが、命運が尽きて、明応七年(1498)、伊勢氏(北条早雲)の総攻撃を支えきれず落城した。  大森氏はこの地で滅亡。

この時代、小田原を含めた相模国は扇谷上杉家の所領地だった。  大森氏を滅ぼした早雲(伊勢氏)に、激怒した上杉朝良(tomoyosi)は、小田原城の早雲を攻撃する姿勢を見せた。  この動きに対して早雲は策略を巡らし「これからは扇谷の旗の許に属し、ご命令に従う」と云った内容の事を上杉に伝え、和睦を申し出た。

和睦が成立し小田原に入った早雲は約十年間時期の来るのを待っていた。・・・・・  永正元年(1504)9月、武蔵国の立河原(立川市)で両上杉の合戦が始る。  早雲と今川氏親(imagawa・ujitika)は兵を派遣して上杉朝良軍に加わろうと準備を始めた。  早雲は小田原城乗っ取り後の扇谷上杉との約束を果たした形に見せるためもあったようだ。 駿河の今川氏親は、扇谷上杉の縁者であり、氏親の娘は小田原北条氏康の妻といった間柄である。

当初朝良側が優勢だったが、次第に山之内上杉の顕定(akisada)軍がもりかえし始めた、越後の守護・上杉房能(fusayosi)軍が加わり形勢が逆転したのである。 朝良勢は敗北して河越へと引き上げた。  早雲や氏親の軍勢が、越後からの顕定軍と、本気で戦おうとしなかったからだと云われてる。  川越城に籠城した朝良軍は半年間の籠城の末和睦を申し入れた。・・・身内同士の間柄であり顕定は朝良の申し出を受け入れて、上野へと引き上げた。

籠城の苦境にあるのを知りながら、早雲は援軍を送らず、見て見ぬふりをしていたのである。・・・・・ようやく両上杉は気付いたのです。 互いに戦い両上杉の衰退を待っていた北条早雲であることが。・・・  (続)

平成二十六年甲午・癸酉・癸亥
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