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頼朝以後の小田原

*早雲、本格的に相模侵攻する

北条早雲は永正七年(1510)、相模国高麗寺山(kouraijisan)(大磯町)に陣を構えていた。 伊豆と小田原を本拠と定めた早雲は、相模一帯を制するには三浦半島を勢力下としている三浦一族を攻略しなければならないと考えていた。  まずは岡崎城を攻略し鎌倉へと侵攻する事をもくろんでいました。
鎌倉への入り口江の島の夜景(腰越・小動神社から)
s-2011_0709_191427-DSC01674.jpg

*永正九年(1512)8月、北条早雲81歳。

岡崎城は、平塚市と伊勢原市が接する地域に、頼朝が勝利し、鎌倉に幕府を創設した頃に三浦一族の岡崎義実(okazaki・yosizane)が築いた城といわれ、要害堅固な城と評価されていた。 早雲が岡崎城を攻撃した時の城主は三浦義同(miura・yosiatu)でした。  まず扇谷上杉氏がいた大庭城(藤沢市・大庭)を攻め落とした早雲はその勢いを以て岡崎城を包囲した。  早雲と氏綱(早雲嫡男)(ujituna)が指揮する北条勢は、孤立した岡崎城に大挙して攻撃を加えた。

岡崎城も早雲の攻撃に落城、義同もこれまでと覚悟を決めたが家臣達に諌められ一旦は住吉城(逗子市)まで落ちた。 早雲の追撃は執拗で、住吉城も落城してしまった。  義同主従は、義同の嫡男三浦義意(miura・yosimoto)が城主の新井城(三浦郡・小網代)へと落ち延びた。


新井城は、義同の養父時高が築城した城だが、実子が生まれると養子にした義同が邪魔になり態度を変えたらしい、今にも殺害されかねない状況に、身の危険を感じた義同は小田原に逃れて出家し、道寸(dousun)と名乗ったが、家臣たちが時高の扱いに反対して義同の許に結集して、新井城を襲撃しこれを奪った経緯があります。

鎌倉に入った早雲は、義同の援軍に対する備えに、玉縄城(鎌倉市・大船)を構築した。  永正十三年(1516)、扇谷・上杉朝良の子朝興(tomooki)は、義同への援軍を率いて玉縄城を包囲したが、玉縄城の守りは固く、攻めあぐねた朝興勢はやむなく江戸へ引き上げてしまった。

新井城に入った義同は態勢を建て直しつつ上杉朝興の援軍に期待していたが、大船の玉縄城を攻め倦み攻略できずに江戸に引き返してしまった。  その後早雲は新井城の攻撃を開始しています。  城主・三浦義意は奮戦したが力及ばず敗れ落城した。  かくして頼朝以来の相模国三浦の豪族三浦氏は滅亡して、早雲念願の相模国平定が実現したのである。  (続)

平成二十六年甲午・癸酉・乙丑
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