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頼朝以後の小田原

*北条早雲とは?・・・・・

早雲の出生はよくわかっていない。伊勢の関氏からの出自とも、室町幕府政所の執事を務めた伊勢氏の系統ともいわれ、生国は備中(岡山県)という説もある。  はじめて使った名前が伊勢新九郎長氏(isesinkurou・nagauji)といわれている。 早雲庵宗瑞(souunan・souzui)とは入道してからの名ともいい、いつ入道したかは解らない。  北条の姓は、早雲の子氏綱(ujituna)の頃から用いるようになったといわれる。
鎌倉のやぐら(報国寺・竹の寺)鎌倉・浄明寺
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永正十六年(1519)8月15日、早雲は伊豆の韮山(nirayama)で死亡している。八十八歳であった。  嫡男・氏綱はこの時三十三歳。

死後直ちに伊豆国修善寺で供養を施したのちに、小田原領内湯本に墓所を築き遺骨を納めた。・・・ 法名早雲寺殿天岳宗瑞。

小田原を本拠とした北条氏は五代にわたり城郭の整備を推進した。町屋、商家を取り込んだ城下町を抱合した大陸的な総構の構想によって築いた規模の城郭は五里四方ともいわれている。 西南に早川の流れ、南は相模の海、東は久野川水系で仕切られ、これらを取り巻く石垣山から塔之峯、明星岳、久野丘陵への尾根筋、酒匂川の流れが防御地形を形成している。

そして城郭は、大外郭、外郭、内郭、内城の四つによって構成し、二重の堀などを施して敵の攻撃に対して万全の備えを施し、最も籠城に適した城としても、大阪城、江戸城と共に数えられている。

その他、諸々の施策を行っていた。  特徴的なのは、伊豆国の百姓に宛てた文章に「虎印判」を押している。  そのころの早雲は「虎印判」を用いて、規定した基本政策書状にこれを押し印して、政策を推進していた。

*虎印判・・・・・小田原北条氏の公印。 上部に虎の造形が彫られ、縦横5cmの角印

早雲が伊豆国を手中にした説として、次のような内容もある。   初めは足利八代将軍・足利義政(yosimasa)に仕えていたが、義政が他界したのを機に、駿河に下り、足利一族であり駿河国の守護であった縁者の今川義忠(imagawa・yositada)を頼って、沼津・篠山にある興国寺の城に入ったと云う。

*今川義忠・・・今川義元の祖父になるが、妻は北川殿で早雲の姉である。

早雲の母は尾張国の出身で、鎌倉幕府十四代執権・北条高時の末孫の横井掃部助(yokoi・kamonnosuke)の娘である。伊豆の北条(地名)には横井一門が在住し早雲の親族といった関係である。

早雲の嫡男・氏綱が北条姓を名乗る様になったのもこのあたりが起源ではないかと考えています。・・・・・・   (続)

平成二十六年甲午・癸酉・己巳
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