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頼朝以後の小田原

北条早雲とは・・・?続き。

伊豆の興国寺城に落ち着いた早雲は、京都にいた時仕えていた足利義政(yosimasa)の弟政知(masatomo)との縁もあり、伊豆国へ来たとも言われている。
伊勢宗瑞(早雲)が築城した鎌倉・玉縄城  (2012年は築城500年記念祭が行われた)
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足利政知(堀越公方)は関東平治の為、長禄二年(1458)秋には駿河の国府に到着し、さらに伊豆の国府(三島市)に入っている。  その頃、山之内、扇谷両上杉家は、武蔵と相模の境界付近で足利成氏(asikaga・sigeuji)(鎌倉公方)と交戦状態にあり、鎌倉へ入れずにいた。  室町将軍家公認の鎌倉公方として関東に下った足利政知は伊豆の堀越で足止めされた状態であった。

韮山城主だった外山豊前守(toyama)は政知に忠義を尽くし、優れた人物だったらしいが、何かのいきさつで外山を成敗してしまった。  外山に男子がいなかった為、生前から早雲に跡目を継がせようと早雲を婿に迎えたのである。 興国寺城からも近かったので、豊前守の死後、早雲は韮山城に移った。

早雲は生来の慈悲深さと民を慈しむ心に領内の民衆は親のように慕っていた。 文武両道に優れ、人一倍仕事に励み、謀りごとにも長けていた早雲は、今川義忠を頼ってきた頃は、義忠に忠義を尽くしていた。 義忠の子つまり姉の子竜王丸(tatuoumaru)は、早雲にとって甥だが、七歳の時元服して今川氏親(ujitika)と名乗ったが、そうした早雲を崇拝していたと云う。

延徳三年(1491)四月、堀越公方の足利政知は、五十七歳で死去した。  政知には三人の男子がいたが、長男義澄は管領・細川政元(hosokawa・masamoto)が京都に迎え入れて足利十一代将軍となり、三男は茶々丸(tiyatiyamaru)といったが、後に御所を継いで成就院(jiyoujiyuin)と名乗ったのである。 しかし、猛々しい性格で近習の侍たちが寄り付かず、国中は荒れていったと云う。

その頃、関東では、古河の成氏(sigeuji)と上杉勢との合戦が続いており、伊豆国の武士たちは関東に出兵し、御所は手薄な警備になっていた。  この時早雲は好機とばかり軍勢を率いて堀越を包囲一気に御所を焼き払い攻略した。  成就院茶々丸は自害して果て、御所方の侍は降伏。  早雲はそれ以来民衆から北条殿と称されたようだ。

成就院を討伐した早雲に伊豆国近隣の武将たちは降伏し、早雲の威光は高まり、ますます気力も増し、上杉討伐の策略をめぐらして居たと云う。   (終)

平成二十六年甲午・癸酉・壬申
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