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秀吉の小田原攻めと北条氏の滅亡

*早雲隠居

伊豆・相模両国を平定した早雲は、小田原城を嫡子氏綱(ujituna)に任せ、伊豆国韮山に隠居した。?・・・韮山はかつて成就院(茶々丸)を滅ぼし、伊豆の国を統治した地である。
後北条(小田原)氏の三つ鱗紋(大船・二伝寺本堂)
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北条早雲は永正十六年八月、八十八歳で伊豆国韮山で生涯を終えた。
早雲の跡を継いだ氏綱は、早雲が行っていた政道を受け継ぎ、仁義を貴び孝行を奨励し、長老をいたわって、忠臣には賞を与えて報い、義士には愛情を示して大切にする行動を領内に推進した。  そして、その恩義にあやかろうと、近隣諸国から商人たちが集まり始めた。

後北条氏は早雲に始まり、氏綱、氏康、氏政、氏直へと、五代にわたる小田原北条の善政と繁栄が小田原に展開されたのである。

天正十八年、秀吉が小田原を攻めるに当たっては、発端となる要素に、天下統一の構想実現の為もあったが、その誘因となる群馬・沼田にもあったようだ。

沼田は元来中世からの雄族・沼田氏が勢力を持っていた地域だが、一族の内紛によって滅亡してしまっった。  その後、隣国の上杉謙信が支配していた。  天正四年(1578)頃は、北条氏と上杉謙信との争いが続いていて、沼田は北条の支配地になったり、上杉のものになったりしていた。  謙信は信濃で武田信玄とも戦っており、沼田に対して手が回らなくなっていた。  謙信は和解を提案、北条から養子をもらって跡を継がせたいと申し入れした。

*上杉三郎景虎(kagetora)・・・・・北条氏康七男氏秀(ujihide),  北条幻庵(genan)の娘と婚姻、養子となっていたが上杉家に夫婦養子で入った。

上杉謙信は、長尾一族の長尾為景(nagao・tamekage)の子で、始めの名は景虎(kagetora)。  父の死後、上杉定憲(sadanori)が、為景死後の後継問題で紛争した時に調停した後、兄晴景(harukage)から守護代を譲り受けた。  その後、越後に亡命した上杉憲政(norimasa)から、上杉氏と関東管領職を譲られて上杉政虎(uesugi・masatora)と改名。

*上杉輝虎(uesugi・terutora)・・・・・関東管領・上杉政虎。  将軍足利義輝から一字をもらって輝虎。

元亀元年(1570)上杉輝虎(謙信)は小田原から三郎氏秀夫妻を迎え、上杉景虎と名付けて祝宴を催したと云う。  謙信には実子がなく、姉の子景勝(kagekatu)がいたが景勝の父・長尾政景(nagao・masakage)の行状に不審な行動があり家臣に命じて殺害した経緯があり、幼い景勝を育てたものの親の恨みを危惧していたようだ。その様な時期に北条氏からの養子を惣領として迎え入れ、上杉の家督を継がせたのです。  いざという時には小田原からの援軍があろうと期待したようだ。  こうして上杉の行く末の繁栄を考えたのでしょう。   (続)

平成二十六年甲午・甲戌・乙亥
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