FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

東国・源氏の興隆

*保元・平治の乱

為義・義朝親子の関係が悪化するなか保元の乱が起こりました。 鳥羽法皇の跡を継ぐ後白河天皇側に付いた義朝は勝利し、藤原頼長と共に立ち上がった崇徳上皇(sutoku・jiyoukou)側の父為義は敗者となり死罪となりました。
鎌倉幕府最後の砦となった東勝寺に架かる東勝寺橋(鎌倉・小町)
s-2011_0504_105156-DSC01605.jpg
次に起こった平治の乱では、最終的に保元の乱の勝者である平清盛(taira・kiyomori)と源義朝との戦いになり、義朝は敗れ裏切られて殺され、三男の頼朝は捕えられた。  平清盛の継母である池の禅尼(ikenozenni)の度重なる助命嘆願によって、清盛は頼朝の処分を死罪から伊豆国への流罪に変更した。

*源頼朝の旗揚げ

伊豆韮山(nirayama)の蛭ヶ小島(hirugakojima)に流された頼朝は、法華経の読経と写経を日課とした平穏な日々を過ごしていた。  ところが17年後、伊豆国目代(mokudai)の平兼隆(kanetaka)との婚姻を逃げ出した北条時政の娘・政子が、恋仲であった頼朝のもとに奔り一緒になってから波乱の人生が始まった。

*伊豆国目代・・・・・通常国守は京都に住み領地には目代(代官)を置き領地経営を行った。

その後、頼朝は叔父の源行家(yukiie)から以仁王(motihitoou)の平家討伐の令旨(riyouji)を受け取ると、 同じ伊豆に流されていた文覚(mongaku)の勧めもあって秘密裏に平家討伐の準備を行った。  三島神社祭礼の日を狙い、政子の父北条を中心とする伊豆や相模西部の豪族や配流以来の家来が総勢百騎余り頼朝の許に集まり、兼隆の屋敷を襲撃その首を討ち取った。  その足で三島神社まで行き、平家打倒を祈願し、旗揚げを宣言した。頼朝34歳、伊豆に流されて20年がたっていました。

*文覚上人・・・・・元は武士、僧侶となり後白河法皇に仕えたが怒りを買い、伊豆に配流になっていた。  頼朝の重要なブレーンの一人。

*石橋山(isibasiyama)

台風の為、川が氾濫し石橋山への到着が出来なかった和田義盛ら三浦一族は、石橋山の戦いで頼朝敗北の報を聞きやむなく途中から引き揚げてしまった。 三浦氏と合流できなかった頼朝は三浦氏と関係の深い安房国(awakoku)へ向けて真鶴ヶ崎(manazurugasaki)から小舟で脱出する事が出来た。

*鎌倉を目指して再起の出発ち

房総半島に到着した頼朝は、有力豪族に対して源氏の白旗の許への集結を勧める使者を出しました。  挙兵から二十日後、木曾義仲も挙兵し、さらに北条時政が動いて武田信義(takeda・nobuyosi)など甲斐源氏との同盟もなり、頼朝への追い風が吹いてきました。 地方豪族や石橋山で別れてしまった味方も集まり出した。   頼朝が「父と慕う」千葉常胤(tiba・tunetane)の進言のとおり、源氏と縁の深い鎌倉を本拠地として平家と戦うことを基本戦略とし房総から鎌倉へ向かいました。

武蔵、相模へと進む中、豪族・上総介広常が合流、さらに畠山など平家軍にいた者までも降伏して続々と集まってきた。 旗揚げ後二か月足らず、 頼朝は二万騎近くまで膨らんだ将兵と共に鎌倉に入る事が出来た。    (続)

平成二十六年甲午・甲戌・辛卯
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。