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東国・源氏の興隆

**鶴岡八幡宮&大倉幕府

御家人制は、新しい鎌倉の町を造っていくことになります。由井郷から小林郷に移転していた鶴岡八幡宮寺を鎌倉殿の権力の象徴として町の中心に据え、それに相応しい荘厳な造りの八幡宮にするため、武蔵国浅草寺から宮大工を呼んで、本格的な造営が始まりました。  さらに、御家人たちが鎌倉(幕府)に出仕するとき居住するための屋敷がその周辺に建設され、鎌倉の町は急速に発展していきます。
頼朝鎌倉入府・最初の将軍御所(大倉幕府跡)  鎌倉・雪ノ下
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*平清盛の死

源氏の下に御家人が集まってきたとは言っても、武家政権を確立するには京の平家や奥州の藤原氏の討伐が必要であり、鎌倉を真に武家の都とするためには鎌倉の町の整備が急がれた。 頼朝は平家の状況を睨んで動きました。  後白河法皇と清盛との確執に悩んでいた高倉天皇が崩御すると、間もなく平清盛も「頼朝の首を墓前に供えよ」と遺言して病死した。  新しく平家の棟梁となった宗盛(munemori)は法皇に恭順の意を示し、清盛によって停止されていた後白河院政が本格的に復活しました。  一方、頼朝も後白河に叛意のないことを表明して法皇に接近し、今後の朝廷関係や平家対策の布石をしました。

*義仲進攻

木曾義仲が勢いを増し北陸道まで侵攻してきたので、脅威と感じた頼朝は信濃へ侵攻します、頼朝と争いたくない義仲は人質として十一歳の嫡男・義高を鎌倉に送り和睦しました。  平家軍も義仲軍の入洛を阻止しょうと数万騎の追討軍を加賀国まで進めますが、有名な「倶利伽羅峠の戦い」に敗れ敗走しました。 義仲軍はその勢いに乗って京に攻め上りました。  平家一門は京を捨て福原(fukuhara)まで落ち、さらに九州大宰府へ向かいました。

**寿永二年十月宣旨

京に入った木曾義仲は後白河法皇から京中守護に任ぜられ歓迎されていましたが、力不足から兵士たちの窃盗や乱暴が目立ち一気に反感を買ってしまった。 義仲に見切りをつけた後白河法皇は頼朝に使者を送り「流人以前の従五位下にもどす。急ぎ上洛せよ」と頼朝を頼ったのです。

しかし今や、頼朝は東国武士の頂点である鎌倉殿であり、前の平家のように京の貴族社会に参加することは出来ません。 後白河法皇は、朝廷の制度に鎌倉殿の立場を取り込めるように工夫。  「寿永二年十月宣旨」を頼朝に発したのです。

寿永二年十月宣旨・・・・・現在の東海道・東山道の公領・荘園を一旦、本来の領主に戻された。実質的に頼朝の東国支配が認められた。

これで朝廷は実質的に頼朝の東国支配を認め、頼朝勢力の取り込みを図ったのです。 しかも元の領主からの年貢徴収が確実になったことも事実です。 後白河の要請を受け頼朝勢力は入洛の準備をしていました。    (続)

平成二十六年甲午・甲戊・丁酉
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