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東国・源氏の興隆

**鎌倉幕府の礎・問注所と公文所

大倉御所内に三善康信(miyosi・yasunobu)を執事とする問注所(montiyujiyo)を設置しました。  また政務や公文書の発行も増え公文所(kumonjiyo)も必要になり、初代別当に大江広元(ooe・hiromoto)が就任した。  こうして政権としての役所が整えられてゆきました。  この両役所を始め、京では身分が低いため十分な働きが出来ないが、実は有能な下級公家が頼朝の要請によって鎌倉に下り、多くの官僚が起用されました。
鎌倉幕府問注所跡・石塔(鎌倉・御成)
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義経が鎌倉に無断で検非違使に任官したことは前述したが、この任官が兄頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを禁止されました。
その後、義経は後白河法皇の助けを借りて九州で再起を計ったが失敗に終わり、追われる身となりました。 頼朝が義経捜索のため全国に守護・地頭の設置を要求し、後白河はそれを認め義経追補が始まった。


義経は転々と居場所を変え奥州平泉まで落ちてゆきますが、奥州・藤原康衛(yasuhira)は幕府の圧力に屈して義経を討ったが、頼朝の狙いは義経ではなく、奥州・藤原氏でした。  守護・地頭の設置や奥州・藤原氏の討伐に義経追補を利用したと思われます。

**義経追捕の裏側

少々戻ります、兄頼朝と袂とを分けた義経は後白河の助けを得る為に京に戻り、「頼朝追討の院宣を請うた」、一方頼朝は大軍と共に北条時政を上洛させた。  この大軍を見た後白河は手の裏を返して義経と行家(yukiie)追捕の院宣を頼朝に発し、使者を鎌倉に送って、「義経と行家に脅され院宣を下したので、本意ではない」と釈明したという。

先述した、大江広元の献策によって守護・地頭を義経追補の為という名目で全国に置き、さらにその地位に鎌倉の御家人を任命するというものでした。  各国に軍事警察を司る守護を設置するという事は、鎌倉の権力を全国に広げるという事になり、 公領及び荘園に租税徴収を行う地頭を設置するという事は、徴税を行うことによって御家人が収入を得られることとなります。  この守護・地頭の制は御家人制と並び鎌倉武家政治の基盤となる制度となりました。   (続)

平成二十六年甲午・甲戊・癸卯
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