FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

東国・源氏の興隆

**文治勅許(bunnji・tiyokiyo)

北条時政と大江広元は後白河院の弱みを利用して強引に認めさせた守護・地頭の制は、朝廷から「文治勅許」として発令されました。  それ以外にも鎌倉の要求は人事までにも及び、摂政が義経方の藤原基通(fujihara・motomiti)から鎌倉方の九条兼実(kujiyou・kanezane)へと変わり、義経方公卿が粛清された。
鎌倉幕府・初代公文所別当 大江広元邸跡・石塔(鎌倉・十二所)
s-2010_1024_114058-DSC01100.jpg

*京都守護

京に派遣されていた北条時政は、京都守護として後白河法皇や公家から信頼されその存在感を増していた。  頼朝は、「時政は院と密着し過ぎた」として鎌倉に帰還させた、同時に京の近く六か国の守護を辞任しての帰国でした。  時政の職責を二分して、公家の一条能保(itijixyou・yosiyasu)を京都守護として朝廷との交渉を、時政の甥北条時定(tokisada)を代官とし洛中の治安維持や義経追補の任に当たらせた。

*奥州合戦

その後、頼朝は自ら大軍を率いて奥州へ出陣しました。  泰衛が義経を討とうが討つまいが奥州討伐の大義の変化はあり得ませんでした。  泰衛は藤原三代の栄華を誇る、多数の金色の建物に火を放ってあっさり逃げ出したので、頼朝は平泉に入ったところ焼け残った寺院や宝物の素晴らしさに驚愕、 後に鎌倉に建立した永福寺に大きな影響を与えた。

**後白河の死と征夷大将軍

頼朝は上洛して征夷大将軍(seii・daisiyougun)の地位を望んだが、後白河法皇は応ぜず権大納言(gon・dainagon)と右大将(udaisiyou)とに任じました。 その職は京に常駐する必要があるために、頼朝は辞退して鎌倉に帰り、前右大将(sakino・udaisiyou)として政所を設置しました。

その様は時期に後白河法皇が病に倒れ六十六歳で崩御した。 後白河は、平清盛、木曾義仲、源頼朝等と渡り合った政治家としてこの時期を統治した変革期の法皇だと云えよう。  頼朝にとっては政治的思いが通じる状況となり、九条兼実が頼朝の希望に叶えようと動いて、征夷大将軍に任じられた。  これで名実ともに頼朝は全国の覇者となり鎌倉幕府の体制が完成した。   (続)

リポートはまだ続きますが1週間程度更新できません。・・・では

平成二十六年甲午・乙亥・丙午
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。