FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏(鎌倉)?

承久元年(1219)正月の実朝暗殺によって、源氏将軍は途絶え、摂関家から二歳の将軍を迎えた。しかし、事実上の鎌倉の支配者は北条義時と姉の北条政子であった。  そのことは、将軍・頼経(九条)(yoritune)の屋敷が北条義時の大倉邸の南、義時邸の一区画に建てられた事に象徴される。
実朝暗殺の現場となった鎌倉・鶴岡八幡宮の大銀杏・・・(強風の為に倒木し、現在は無い)
s-2010_1201_123717-DSC01253.jpg

*承久の乱(jiyouyiyuu)

北条義時を首班とする鎌倉幕府も、安泰であったわけでもない、承久の乱である。  実朝暗殺、阿野全成(ano・zenjiyou)の乱などの幕府の混乱ぶりを見た後鳥羽上皇は、北条義時討伐の命令を発したが、しかし関東の武士団は政子と義時らを中心として良く団結し、後鳥羽上皇側の勢力を打ち破り、東国を中心とした軍事政権にすぎなかった鎌倉幕府の影響力が西国にも及ぶようになった。

*阿野全成・・・・・源義朝の七男、義経の異母兄。  母は常盤御前。 幕府・北条氏に対し挙兵するが鎮圧される。

北条小四朗義時(kosirou・yositoki)には三郎宗時(saburou・munetoki)と云う兄が居ましたが、頼朝挙兵の石橋山の合戦で戦死している。  年齢不詳で政子の兄なのか弟なのかもわからないが、宗時は時政の嫡男と考えられている。  その根拠として、頼朝挙兵直後に起きた石橋山合戦の敗北後における北条親子の逃走方法である「吾妻鑑」によれば北条親子は時政・義時と宗時に分かれて逃げている。 二手に分かれることで、一方が生き残る・・・家の存続を計ったのです。 この場合、時政が惣領、宗時が嫡男で、庶子である義時は父のボディ・ガードであったと思われます。結果として、宗時は戦死。  時政と義時は生き残ったのである。

三郎宗時、小四郎義時の話に戻ります、二人の名のうち「時」は、北条氏の通字であるが、では宗時の「宗」、義時の「義」は何者から偏諱(henki)を賜ったのであろうか。  当時の武家社会の慣習からその烏帽子親を推定することができます。 まずは義時。   当時の東国武士団にあって「義」を通字とするのは、相模の三浦一族である。三浦氏は相模の三浦半島を本拠とする相模国最大の武士団であり、初期の鎌倉幕府でも、最大級の豪族であり、その影響力は大きかった。

***偏諱(henki)・・・・実力者が臣下や元服する親族に自分の名前の一字を与えること。

北条氏は、この三浦氏と伊藤氏を通じて姻戚関係にあったと思われ、 北条義時と三浦義村は母方の従兄弟同士であったと考えられる。此の関係からしても、義時の「義」は三浦氏嫡流、具体的には義村の祖父義明(yosiaki)または義澄(yosizumi)の偏諱を受けたものとおもわれる。 このことからも北条義時は三浦氏嫡流を烏帽子親(ebosioya)としたと推定されます。

それでは、嫡子宗時の「宗」は何者の偏諱であろうか。  候補者は時政の後妻牧方(makinokata)を出した牧氏である。 牧氏は平忠盛(tadamori)の後妻、つまり清盛の継母であり、頼朝の助命を清盛に請うた池禅尼(ikeno・zenni)の実家である。  牧氏は全盛時代の清盛流平氏の近臣であった。

清盛流平氏の近臣である王朝貴族牧氏と東国武士北条氏の平氏全盛時代の関係は、主従関係に近いものであったろうと考えられ、時政は主人筋にあたる牧宗親(maki・munetika)嫡子宗時の烏帽子親となってもらったのではなかろうか。・・・
さらに推測を重ねれば、時政は宗親の娘牧方(makinokata)を宗時の妻にしょうとしていた可能性もある。  ところが挙兵直後の石橋山合戦で宗時はあっけなく戦死してしまった為、時政は牧方(makinokata)を自分の妻にしたのではないだろうか。・・・・・


嫡子宗時を牧氏の烏帽子子とすることにより、牧氏を通じて駿河、さらに京都の清盛流平氏と結びつき、一方で庶子義時の烏帽子親子関係を通じて相模三浦一族との協調を目指す。  このような東西両方面への勢力伸長を時政は考えていたと思われる。       (続)

平成二十六年甲午・乙亥・戌午
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。