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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏・Ⅱ

これまでは北条時政側から見た戦略で、あまり評価できない。  牧氏、三浦氏への接近は、近隣の強力武士団・伊東氏に吸収されるされることを免れ、伊豆国内の自家自立を目的としたものと解釈するのが妥当であろう。  同様に、頼朝を娘婿に迎えたことも将来に対する壮大な計画があったからではなさそうだ。
三浦半島の豪族・三浦氏の居城衣笠城址(横須賀市)
DSCN0558.jpg
頼朝は確かに源氏の嫡流ではあるが、平治の乱で壊滅状態になっていた頼朝はただの流人にすぎないのだ、平氏の時代があと二十年続いていれば頼朝の出番はなく、彼は平治の乱後の伊豆配流のまま生涯を終わったに違いない。  貴種(kisiyu)であるという以外には何の価値もない流人頼朝を娘婿として認めたのは東国武士団内部の北条氏の地位向上に少しでも繋がればと考えたにすぎなかったのでしょう・・・。

*江間小四郎(ema・kosirou)

「吾妻鑑」によれば北条義時は、相模守(相模・国守)に任官する以前は「北条小四郎」または「江間小四郎」・「江間殿」などと呼ばれている。   父時政や兄との連記の場合のみに北条姓で呼ばれたが、その他は江間姓が一般的である。 注目されるのは嫡子泰時の通称である。    今日、泰時は「北条泰時」で通っており、彼の名字が北条であることに疑問を持つ人はまずいない。  ところがである、泰時は「吾妻鑑」では、北条氏で呼ばれておらず、苗字を記した場合はすべて「江間」・「絵馬」なのである。 これは明らかに義時の家が江間氏であり、北条氏では無かったことを示している。

江間は北条氏の苗字の地である北条の狩野川を挟んだ隣地の地名である。  義時は父時政から江間の地を与えられ、それゆえに江間小四郎を名乗ったのである。  義時は北条氏の庶家江間氏の始祖という事になります。

*本家と庶家

北条時政の嫡子は義時の兄宗時であったが、頼朝挙兵時の石橋山合戦で戦死する。  この後、時政の北条氏本家は誰が継承したのでしょうか、・・・まずは義時の異母弟で牧方(makinokata)の生んだ政範(masanori)である。  この政範僅か十六歳で「従五位下」を受けていた。  さすがに牧家の力は大きかったのです。 すでに貴族社会への登竜門である官位に叙されていたのです。

政範が十六歳で既に叙爵していることは、この時期の北条氏にとっては破格の待遇であり、時政の嫡子であったことは明確である。  時政は義時・時房を差し置いて後妻牧方の生んだ政範を嫡子としていたのです。  時政が政範、そして牧方をいかに溺愛していたかが理解される。

**「吾妻鑑」元久元年・・・「佐馬権助」(sama・gonnosuke)の十一月五日条の卒伝。  「従五位下行佐馬平朝臣政範卒」の記事から叙爵していることが判明する。

北条氏本家のもう一人の後継者候補は、義時の次男で名越家(nagoeke)の祖となる朝時(tomotoki)である。  名越の家名は時政の鎌倉での屋敷である名越邸から出ており、朝時が祖父の邸宅を継承したことを示しています。  嫡男・泰時(yasutoki)(第三代・執権)の母の出自は確認できないが、朝時の母は名門・比企氏の出身である。

**比企氏・・・・頼朝の乳母・比企尼の一族。  比企尼の実子で早世した朝宗(tomomune)の娘・・・朝時の母。

頼朝期から頼家期にかけての幕府における比企氏の勢力は強大であった。 しかし、比企一族は建仁三年の北条時政による打倒比企氏のクーデター「比企の乱」で族滅してしまった。  この事件によって時政は鎌倉幕府の執政者の地位に就いた。

少々それましが・・・時政はこの雄族比企氏の血を引き、ゆえに北陸三国に権益を主張できるこの孫を後継者に考えていたようだ。  義時と朝時の父子関係が後年良好なものでなかった事には、この様な背景が考えられます。  家祖朝時以来、名越家が一貫して得宗家に対抗し続けた理由も、名越北条の側から見れば自家こそが北条本流であり、得 宗家は本来分家である江間氏の子孫にすぎないという意識があったのではないだろうか。 (続)

訂正・・・・・前号の阿野全成(源義経の異母兄)の記事、ご指摘の通り(同母兄)の誤りです、訂正をお願いします。  以後注意しながらリポートします。・・・間違いがありましたら指摘をお願いします。   mituuroko

平成二十六年甲午・乙亥・辛酉
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