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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 Ⅲ    覇権への道

北条義時の鎌倉幕府における政治的地位の変化を観て行こう。・・・・・治承四年の頼朝挙兵までの義時といえば、吹けば飛ぶような田舎武士団の北条氏の庶子であり、その将来は兄宗時の家子以外にあり得なかった。    義兄・頼朝挙兵以後の運命は義時自身の予想をはるかに超えたものであったはず・・・・・。

挙兵直後はかなり悲惨な目に遭っている。  山木攻めこそ勝利したものの、悪天候もあって小田原・石橋山合戦で大敗。壊滅的な打撃を受け、生き残った者どもは、敗走を重ねた。  北条父子は時政・義時と宗時の二手に分かれて逃げたが、宗時が戦死したことは前記した。  時政・義時父子は敗走しながらようやく伊豆の土肥港から安房を目指して逃れ、安房で頼朝らと合流した。
鎌倉幕府の記録「吾妻鑑」建久五年・六年条教本
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頼朝と合流した義時親子は、頼朝の命により甲斐(山梨県)に派遣された。 自立勢力であった甲斐源氏との同盟締結が目的であった。  どのようなルートで甲斐に潜入したかは不明であるが、平氏方の勢力圏をすり抜けての決死行であったのは間違いありません。  ところが命がけの任務の割に、この甲斐行きにおける義時の役割は軽い。  そもそも「吾妻鑑」では、この甲斐潜入作戦の記事に五回の記述がありますが、最初の治承四年九月八日条には時政の名しか出ておらず、以後も十五日、二十日、二十四日と時政の記述しか出てこず、十月十三日条になって、ようやく「北条殿父子」、つまり時政・義時が甲斐源氏と共に駿河に向かったとの記事があって、義時が同行していることが解るといった始末です。

平氏滅亡後、京都に滞在しての戦後処理、王朝との交渉を行うなど、時政の交渉能力の高さはよく知られており、甲斐源氏との折衝も当時43歳の時政が担ったと判断される。当時18歳の義時の役目は、石橋山敗戦後の逃走時と同じく父時政のボデイガードに徹したと思われる。

頼朝の鎌倉入り後も、北条氏自体は鎌倉殿外戚として伊豆時代とは比較にならない地位を築きながら、父時政の義時への庶子待遇に変化はありませんでした。  その一方で頼朝からは親衛隊的な側近の地位を与えられていたのです。

頼朝時代における義時の立場は本当に目立たない、源平の合戦では、源範頼・義経軍の幕僚に加えられていたが目立った武功もなく、占領地行政の面でも時政のアシスタントで終わっています。  また残った敵である奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦も同様でした。  しかし、わずかに「吾妻鑑」の記述に残る次の話があるくらいです。

義時二十歳の時、主人頼朝の「亀の前」という愛人との関係が発覚し、時政の後妻牧方関係等から頼朝、時政のの関係に亀裂が生じ時政は伊豆に引き上げてしまった。  その時に義時は父時政と行動を共にせず鎌倉に残り、その穏便さを買われて頼朝の信頼を得たようです。

*御家人間抗争

義時三十七歳の正治元年(1199)正月、頼朝が五十三歳で没した。  鎌倉の主を失った幕府は、陰惨な内部抗争の時代を迎える。  幕府の主導権を巡って有力御家人たちが源家将軍家を巻き込んでの権力闘争を繰り広げたのです。源平合戦の戦友たちが殺しあったのです。 鎌倉幕府史上でも悲惨な時代であったといえるでしょう。  そうした陰惨な抗争の勝利者こそ、北条義時なのである。

❶・・・正治元年(1199)、安達景盛(adati・kagemori)討伐未遂事件。

流人時代からの側近安達盛長の嫡子景盛の愛人を将軍頼家が奪った事件、景盛が反乱を企てているとして討伐を命じたが北条政子の機転によって未遂に終わった。  これが抗争の時代の幕開けとなった。 (続)

平成二十六年甲午・乙亥・甲子
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