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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏  Ⅳ・・・権力闘争

❷・・・・・正治元年、梶原景時弾効事件

侍所の次官梶原景時は、義経を諫言によって陥れたことはよく知られている。  頼朝の側近として仕え、十三人合議制のメンバーでもあったその景時が、頼家に結城朝光(yuuki・tomomitu)を諫言した。  有名な「忠臣、二君に仕えず」という言葉をとらえて、頼家への叛意を示すと諫言、これを知った御家人たちは朝光救援に立ち上がり、総勢60人以上の弾劾を受けた景時は失脚。
鎌倉・梶原バス停・・・梶原氏の出身地付近
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❸・・・・・正治二年、梶原景時滅亡

御家人たちに弾劾を受けた景時は、起死回生のチャンスを王朝に見出そうとし、京を目指した。  かつて都に在勤したときの王朝・貴族たちとの関係を頼っての上京であったが失敗に終わりました。

❹・・・・・建仁元年、越後城氏の乱

平安時代以来、越後の豪族城氏は、源平合戦期に平氏方についいたために衰退し、御家人となっていたが、反乱を起し、幕府軍によって鎮圧される。

❺・・・・・建仁三年、阿野全成誅殺事件・・・・。前述済み

❻・・・・・建仁三年、九月 比企の乱

頼朝の乳母比企尼の一族比企能員(hiki・yosikazu)は、頼家の妻若狭の局(wakasano・tubone)の父であり、その権勢は強大であったが、 その権力の拡大を恐れた北条時政の陰謀によって暗殺され、比企一族と共に頼家も幽閉の後に斬殺された。この事件によって時政は大江広元(ooe・hiromoto)と共に政所別当に就任し、一挙に幕府の最高権力者になった。

❼・・・・・建久元年、七月  源頼家暗殺

北条時政の命により、伊豆修善寺の幽閉先で頼家が暗殺された、その殺害方法は陰惨な斬殺であったと伝わる。   (愚管抄)

*義時の主張

陰惨な事件の連続であるが、ここまでの一連の事件でも、義時は積極的に行動した形跡はない。  比企の乱では、確かに小御所攻撃軍の大将となっているが、この事件での主役はもちろん時政でであり、義時は時政の駒の一つであった。 北条義時が初めて自己の意思を示したのは、次の事件である。

❽・・・・・元久二年六月、  二俣川合戦(畠山合戦)

北条時政とその後妻牧方(makinokata)が武蔵・秩父党の実力者畠山重忠(hatakeyama・sigetada)の謀反が発覚したとして、義時・時房に重忠討伐を命じた。  しかし、重忠謀反を信じかねた義時らは、その真偽を確かめるように主張したが、時政・牧方に押し切られ比企能員(hiki・yosikazu)に続いて、相模と共に鎌倉幕府の本拠地というべき武蔵の実力者畠山重忠を謀略を策して葬った時政であったが、この事件こそ彼の失脚のきっかけとなりました。

❾・・・・・元久二年七月    牧氏の変

時政は二俣川事件の結果に不安を感じたらしい、時政、牧方の娘婿である京都守護職の平賀朝政(hiraga・tomomasa)を将軍に立てようと実朝謀殺を企てたことが発覚。 結局政子の命を受けた御家人たちによって救出され、実朝は義時邸に入り、時政夫妻は孤立。  時政は失脚し、出家のうえ伊豆北条に追放された。  父を駆逐した義時は、この事件を契機に時政に替わり大江広元と共に政所別当に就任した。

「鎌倉殿」、源頼朝没後の連続したこれらの抗争事件の結果は、長い間、父時政の意のままに動いていた義時を幕政指導者の地位に就かせたのです。  以後、将軍実朝とその母政子を擁した義時は、大江広元及び頼朝の近臣・安達盛長の息子景盛らをブレーンとして幕府の運営に専念した。   抗争は一旦は集結し、八年にわたる平和が訪れる。    (続)

平成二十六年甲午・乙亥・丁卯
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