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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 Ⅴ  さらなる抗争

北条義時が目指した政治は、幕府中枢への権力集中であった。  典型的な政策は、守護の交代制である。しかし、この制に反対した下野小山・下総千葉・相模三浦の三大豪族の抵抗に遭い中止された。  義時としては、頼朝のようなカリスマ性を期待できない若い将軍実朝を盛り立てていく以上、幕府政治安定のためには、幕府中枢に制度的に権力を集中するしかないと考えたのである。だが、この政策は最初から強引な政策であり反発を生んだのである。  そして反義時の急先鋒として期待されたのは、侍所別当の和田義盛(wada・yosimori)(三浦氏一族)であった。
北条義時に滅ぼされた和田一族の墓所(鎌倉・由比ヶ浜)(江ノ電・和田塚駅付近)
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➓・・・・・建保元年  和田合戦

和田氏は相模最大の豪族三浦氏の分家であるが、義盛は挙兵直後の治承四年に初代侍所別当に任命されるほどの人物で、頼朝の信頼は特に厚かったようだ。 建保元年当時は六十七歳で、幕府内では宿老の地位にあった。  義時は五十一歳である。  当時三浦氏の惣領は、義盛の従兄弟である三浦義村(miura・yosimura)で、母方の従兄である義時より五歳くらい年下であったと考えられる。  この推定年齢が正しければ、従兄弟とは言え、親子ほども年齢が隔たっていたことになる。 よって義盛の勢威は惣領義村を凌いでいたと思われる。

*泉親衛(izumi・tikahira)の謀反計画

建保元年の二月に起きたこの計画に義盛の子・義直(yosinao)・義重(yosisige)・甥の胤長(tanenaga)の一族が加担していることが判明した。  上総にあった義盛は急遽鎌倉に駆け付け、実朝に直談判して、子息義直・義重の赦免を勝ち取った。  さらに義盛は一族を動員して将軍御所に参上し、甥胤長の赦免を要求した。  しかし、義時は胤長を縛りあげて一族の面前を連行するという、神経を逆なでする行動を敢えて行った。

義時は謀反計画の規模の大きさを知って、義盛との対決は回避できないと腹を括り、挑発行為を繰り返したと考えられる。  甥胤長は陸奥国に配流され、大倉幕府近くにあった胤長の鎌倉屋敷は一旦は和田義盛に与えられたのですが、直ぐに北条義時に与え直され、義時は既に入居していた義盛の代官をたたき出したという。

こうした北条義時の挑発行為に限界を感じ、挙兵を決意し和田義盛は準備を進めた。  ところが、共に立ち上がる事を約束し、起請文まで書いていた三浦義村・胤義兄弟が裏切り、義盛の謀反を義時に密告したのです。 この時期の三浦一族は前述したように本家の義村より分家の和田義盛の権勢が上回っていた。  義村にしてみれば、父方の従兄である義盛より、母方の従兄である義時の方が親近感があったのかむしれない。 義時はこの様な三浦氏内部の亀裂を巧みに察知しての策謀だったと思われます。

予定の軍勢が整わぬまま挙兵し、将軍御所を襲撃する、「和田合戦」である。  鎌倉は幕府創設以来初めての市街戦の戦場と化した。前日の夕刻から翌日の夕刻までの激しい戦闘を奮戦したが、作戦の狂いが最後まで響き、敗れた。  和田一族・武蔵横山党・相模の、土屋・山内・渋谷・毛利・鎌倉など幕府の本拠地である南関東を中心に多くの武士団が和田方として滅亡、あるいは没落した。

三浦兄弟の寝返りもあり、この合戦に勝利した義時は政所別当に加えて、義盛の役職であった侍所別当にも就任。 これで幕府の重要な役職を兼任することになる。 この事例が執権職の始まりと考える。    (続)

平成二十六年甲午・乙亥・庚午
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