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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 Ⅵ   短い平和


和田合戦以後、鎌倉幕府には、青年将軍実朝のもとでしばらくの平和が訪れる。    実朝は武官の最高官職である佐近衛大将に任官した。  鎌倉在住の実朝は慣例として鶴岡八幡宮に拝賀することになり、その行列に京都から人が呼ばれたのであるが、この中に大江広元(政所別当)の次男・長井時広(nagai・tokihiro)がいた。  時広は天皇に近仕する蔵人(kuroudo)に任官したばかりであった。
鎌倉幕府・政所別当、大江広元墓所(源頼朝墓所の隣)
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その拝賀の式典で殿上人(tenjiyoubito)十人の筆頭として無事に任務を果たし帰京(検非違使任官の目的がある為)の許可を実朝に願い出たのであるが許可が下りませんでした。  困り果てた時広は義時を訪ね、泣きながら実朝へのとりなしを頼みました。「吾妻鑑」に本当に「泣」の記述がある。 このとりなしが功を奏したのか時広は京に帰っています。

実朝は和歌をたしなんだ事は有名で、若くして暗殺という非業の最期を遂げたことから、おとなしくて、かわいそうな将軍というイメージが広がっているが、結構短気で恐ろしい一面もあったようです。 長井時広の事件における実朝の発言は、興味深い。「所存の企て、関東を蔑むものである、幕府を軽く見てはいけない」という強気な発言が表されています。時広の帰京を許さなかったのはその様な事情からだったと思われます。  実朝は鎌倉幕府を朝廷に比肩するものであり、そうであらねばならぬと考えていた。  そして、その幕府の主の自覚と自信を持っていたのです。

「気の強い母政子と実権を握る叔父義時」に頭を押さえつけられ、芸術の世界に心を慰めるしか無かった将軍という印象のある実朝であるが、実際の姿は、どうして堂々とした態度にも見える。  そして義時との関係もマリオネットとその操者といった単純なものではなかったこともわかる。  二人の間には確かに信頼関係が築かれ、頼朝のように政務を自分で処理せずに実際の政務の多くは義時に任せていたが、自分は鎌倉将軍として振る舞っていたのです。

一方で義時は、父時政と並んで「陰険」・「腹黒い」と評判が悪く、実際にそういわれても仕方のない行動もとっているが、結構親切な所もあった、京都に帰った長井時広などの実朝への取り成し等、世話を焼いています。  実朝が長生きをして子孫を残していれば、鎌倉幕府の歴史そのものが、そして鎌倉北条氏の運命は、かなり違ったものになったと思います。     短い安定は終り、次は承久の乱です。

平成二十六年甲午・乙亥・癸酉
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