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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 Ⅶ  承久の乱

和田合戦から六年後、承久元年(1219)正月、幕府草創以来の大事件が起きた。  右大臣任官の拝賀の為参詣した鶴岡八幡宮社頭で、将軍実朝が兄頼家の遺児である鶴岡別当・公暁(kugiyou)によって殺害され、公暁もまた殺されてしまったのである。  これで源氏将軍家は三代にして滅んでしまいました。  この事件に関しては諸説がありますが、現在に至っても判然としていません。  しかし、この事件が頼朝死亡以来の抗争の結果であったことは明らかでしょう。
源実朝を祀る白旗神社(sirahata・jinnjiya)(鶴岡八幡宮内)
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はっきりしていることは、この事件が鎌倉幕府を苦境に陥らせ、承久の乱の遠因となった事。・・・北条氏にとっても、政子の生んだ実朝は自らの最大の権力基盤であった。  同じ政子の子であっても、比企氏に取り込まれていた頼家とは違う。  比企氏の乱のときの実朝のような次の駒を北条氏は持っていなかったのである。 実朝暗殺の黒幕が義時ら北条氏とする解釈があるが、同調できない。

承久元年、実朝暗殺で主を失った幕府は、朝廷の最高権力者・後鳥羽院(上皇)に皇子の関東下向を願い出た。しかし、頼朝没後の混乱に続き将軍家断絶を鎌倉幕府の弱体化と判断した後鳥羽院は皇子の下向をにべもなく拒絶した。  さらに近親者の所領国の地頭罷免の院宣を発給するなどの行動に出た。

それに対し義時は、「幕下将軍の時、勲功の賞に募り定補せらるるの輩、然したる雑怠無くして改めがたし」として後鳥羽院の命を拒否、弟の時房の軍を京都に派遣する。   (吾妻鑑)

後鳥羽院の命を拒否した幕府は、頼朝の姉の曾孫にあたる貴族、摂関家九条家の子三寅(mitora)が将来の将軍として鎌倉に迎え入れられた。  後の摂関将軍・藤原(九条)頼経(fujihara・yoritune)であるが、この時、数え年の二歳の赤子であった。  政子は、これより三寅の後見となり、事実上の将軍の役割を果たすことになる。  世にいう「尼将軍」の誕生である。

強気な後鳥羽院に軍勢の力を以て対抗した末に、幕府が担ぐことのできたのは、頼朝の血縁関係とは言っても傍系とも言えない三寅であった。ここに、当時の幕府の苦境を観ることができる。 鎌倉下向までの経緯から三寅は所詮「代打の将軍」であった。・・・・・

一方、討幕の好機と見た後鳥羽は、これまであった北面の武士に加え、新たな院の武力として西面の武士を創設するなど、軍事力の増強に努め、実力による討幕計画を画策していった。  かくして承久三年五月、たった四歳、父順徳(jiyuntoku)より位を譲られた仲恭天皇(tiyuukiyou・tennnou)(85代)の命を奉じる形で北条義時追討の宣旨が発給された。「承久の乱」の始まりである。

仲恭天皇・・・・後鳥羽院の皇孫

(続)

平成二十六年甲午・丙子・丙子
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