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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 Ⅷ 御家人の守護者

後鳥羽院の行動は巧妙であった、義時追討の宣旨を幼い天皇の命で発給し、討幕とは云わずに北条義時の追討のみを命じたところです。  追討宣旨は義時が幼少の主三寅を傀儡として「天皇の権威を蔑ろにした政務をとり、権勢をふるっている、これはもはや謀反である」と喧伝し、諸国の御家人(幕府)を含めた全国の武士に義時打倒を命じている。
化粧坂切通し石塔・・・幕府滅亡の時、最後の戦場となった。
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この宣旨によって幕府が義時派と反義時派に分裂して内戦を起こし自壊する事を狙ったと思われます。  これに対し幕府は緊急作戦会議を招集して、京都への侵攻が決定されました。 先発隊として義時の嫡男・泰時(yasutoki)が鎌倉を出陣した。 遅れて出陣した本隊は、東海・東山・北陸三道に分かれて次々に鎌倉を発し、また沿線の途中から続々と軍勢が加わった。 総勢十九万騎の大軍となり各地での戦闘に勝利し制圧した。

後鳥羽院は今回の事件は謀臣が起こした事として、義時追討の宣旨をあっさりと撤回した。  こうして承久の乱は、幕府の完全勝利という結果となりました。 仲恭天皇は廃位され、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は配流された。

朝廷から地頭の罷免要求を受けた御家人を庇護して命令を拒否した、義時は謀反人として追討される破目になってしまったのです。 仲間の不運を見逃せないとして立ち上った義時を自分たちの守護者と認めたのです。 承久の乱の勝利は、義時に源頼朝と並び称される評価を与える事になったのである。  (続)

平成二十六年甲午・丙子・乙卯
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