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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 Ⅺ  執権政治の確立

元仁元年六月、北条氏の地位を鎌倉幕府に強固に据え付けた執権、従四位下紗前陸奥守北条小四郎・・平義時は生涯を終えた。  62才・・・・・・・・・・
相州・鎌倉へ
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「吾妻鑑」に記された義時の落飾は、息を引き取るまで南無阿弥陀仏と唱名し続け、最後には胸の上に両手で外縛印を結んでいたという。  法名・安養寺殿得宗禅門。  あまりにも整然とした死に様で疑問を感ぜざるを得ない。

死因は「日頃の脚気の上、猛烈な腹痛、下痢、嘔吐などを患う、急性胃腸炎等が想像できる」。当時多かった脚気は、白米の食べすぎではなく、粗食が原因の蛋白質と脂肪の欠乏であったと云われている。 とすれば「吾妻鑑」にあるような端然とした往生など不自然であり考えにくい、おそらくは相当苦しんだ末に死んだことが想像できる。 しからば、「吾妻鑑」が義時の落飾を何の為に虚述したのでしょうか。     それは一方でよく知られている、義時の最後の妻伊賀ノ方の毒殺説によるものなのでしょうか?・・・。

義時死亡の報はすぐに京都・六波羅の嫡男・泰時、弟・時房に知らされた。  折り返し泰時は京都を発ったが、鎌倉由比ヶ浜についたのは九日目の昼頃、途中、伊豆北条に立ち寄って、若干の兵を伴っていたのである。  由比ヶ浜から泰時館までまでは、徒歩でも30分ほどの距離である。 どうしたことか、その夜は由比ヶ浜に一泊している。 同日遅れて京都を発った時房も、由比ヶ浜に到着した。  さらに下野足利荘から泰時に呼ばれた女婿の足利義氏(asikaga・yosiuji)も、到着した。  ともに若干の兵を率いていた。

翌日、時房、足利義氏と共に鎌倉に入った泰時は、ようやく自館に入った。  若宮大路東側の奥に泰時館があり、その郭内には、すでに腹心の関実忠、尾藤景綱の宅があったが、平盛綱等の郎党も召し出されていた。


泰時の鎌倉入りが尼将軍・政子に報告されると、「早く家督を継いで、執権たるべし」と命じたが、泰時は時期尚早として、別当の大江広元に相談をかけている。 泰時は自分が家督と執権職とを継承する事に、ためらいがあったのでしょう。

*伊賀氏ノ変

泰時は、義時の後妻伊賀ノ方の陰謀を警戒していたのです。  彼女は実家の兄弟伊賀光宗(iga・mitumune)らと謀り、自分の生んだ子・政村(masamura)(第7代執権)を北条家の家督と執権に立てようと画策していたのです。  彼女は政村の烏帽子親・三浦義村の兵を当てにしていたようです。

泰時が鎌倉に到着してから約一か月間、鎌倉中は不気味に静まりかえっていた。 伊賀氏兄弟や政村が西御門の三浦館を訪れたり、岐れ道の故・義時館で伊賀ノ方を中心に兄弟が密談したりしており、武装した兵が要所・要所に待機、緊張した雰囲気が漂った。

この様な状況の中、尼将軍北条政子が登場。  深夜、女官一人だけを伴って三浦館を訪れ、義村を説得して三浦党を陰謀の与党から外すことに成功した。 鮮やかな動きである、三浦党に裏切られては伊賀ノ方側に勝ち目は無い。 追い打ちをかける政子の次の一手は三浦。小山・結城など宿老諸将を招集し、その眼前に幼い将軍頼経(yoritune)を抱いて現れると、泰時を執権として認めるよう諸将に誓わせたのである。  (続)

平成二十六年甲午・丙子・戊子
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