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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 Ⅻ   御成敗式目の立法と影響

嘉禄元年(1225)、伊賀方一門の陰謀を退けた泰時は叔父の北条時房(houjixyou・tokifusa)を新設の連署に就任させた。
鶴岡八幡宮・一之鳥居~段葛・本殿を望む(鎌倉・由比ヶ浜)
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*連署・・・・・執権と共に幕府公文書に署名することから起こった職名。

以降、執権・連署就任者が幕府の本拠地である相模守・武蔵守に任官することが多かった。  次いで評定衆(hiyoujiyousiyuu)が設置された。  以下、序列順に記しておく。

❶・・・・・中原師員(nakahara・morokazu)・(文士)・・・・(筆頭)
❷・・・・・三浦義村(miura・yosimura)・(武士)
❸・・・・・二階堂行村(nikaidou・yukimura)・(文士)
❹・・・・・中条家長(tiyuujiyou・ienaga)・(武士)
❺・・・・・町野康俊(matino・yasutosi)・(文士・問注所執事)
❻・・・・・二階堂行盛(nikaidou・yukimori)・(文士・政所執事)
❼・・・・・矢野倫重(yano・mitisige)・(文士)
❽・・・・・後藤基綱(gotou・mototuna)・(武士)
❾・・・・・太田康連(oota・yasutura)・(文士)
➓・・・・・佐藤業時(satou・naritoki)・(文士)
⓫・・・・・斎藤長定(saitou・nagasada)・(文士)・・・(最下位)

評定衆に政所執事・問注所執事が入っている事でもわかるとおり、執権・連署・評定衆によって構成される評定会議が、政所など既存機関の主要機能を吸収して、幕府の最高議決機関・訴訟機関となった。 その後、評定衆は増員され、それに伴って北条氏が次第に増加し、北条氏は評定衆の上位を占有するようになる。

*政所執事・・・政所の次官。   問注所執事・・・問注所長官

将軍・頼家の時に制度化された「十三人の合議制」のメンバーと比べてみると、この三十年あまりで幕府の意思決定に関与しうる人物とその素性が如何に変わったか、一目瞭然だ。  町野・矢野・太田の三名はいずれも問注所執事の三善康信(miyosi・yasunobu)の子息たちで、それぞれの名字は幕府から地頭職を与えられた所領名にもとずく。  武功ではなく文筆を以て仕える事への反対給付として所領を与えられる実務官僚、いわゆる文士の幕府での仕事はますます増え、その発言力は高まり、次々と家を増殖させた。

数年後にはこの評定会議メンバーが主体となって貞永元年(1232)、最初の武家法典「関東御成敗式目」(貞永式目)51ヵ条が発布された。

尚、将軍頼経は設立当初から評定会議には参加していない。 結果を伝えられるだけである。  そして約20年後には、訴訟の判決に関する評定会議の合議内容については、将軍の決裁を必要としなくなる。 さらに幕府の意思決定ラインから将軍が外れてゆく、それが泰時の執権政治の実態であろう。
泰時の治世は、元仁~仁治三年まで十八年に及び、この間大きな抗争や内戦は無く、幕府にとって最初の安定期という事が出来る。   (続)

平成二十六年甲午・丙子・辛卯
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