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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏  ⅩⅢ  御成敗式目(貞永式目)

御家人たちは新しい領地に臨むうえで、現地の経営実務をこなし各種の台帳類も保持する地元荘官との関係構築を迫られる。  一方で東国の本領からの領地経営のノウハウや武士ならではの習慣を西国に持ち込み、時には東国の農民たちを連れての移住もあり、地元社会とのトラブルも頻発したようだ。
当時の海岸線付近から望む、八幡宮一之鳥居(鎌倉・由比ヶ浜)
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寛喜の飢饉(kankinokikin)という危機的状況も影響して、地頭・御家人と荘園領主間の摩擦が高まり、幕府に持ち込まれる訴訟も激増していく。  そうした状況の中この「御成敗式目」・(貞永式目)が最初の武家法典として制定されたのです。

西国社会との新たな交流関係に入った東国の自己規律を内外に示すことにある。   公家と武家の違いを前面に押し出した頼朝以来の先例と習慣を強調し、律令を理解していない御家人たちに問題解決の法的基準を知らしめ、訴訟への判決導出に幕府以外からの関与を排除する、という式目制定の趣旨は、御家人はもとより西国や公家社会に向け発せられたメッセージでもあった。

*系列化する御家人

鎌倉殿に仕える同じ御家人でありながら、有力武士と主従関係を結ぶ中小武士の例は頼朝段階からあり、一連の政争や東国での合戦がそれを一層促した。  分割相続の進展による御家人の家の分立が背景の一つである。 中には地位保全を図るため積極的に有力御家人の被官となる武士は後を絶たなかった。 そうした武士をもっとも抱え込んだのが、北条氏であることは疑いない。加えて北条氏一族から続々と分家が創出されると、被官御家人の系列化はますます細分化されていった。

伊豆の弱小武士にすぎなかった北条氏の政治的地位の急速な上昇もあり、北条氏各家の家政組織に大幅な拡充を迫ることになるが、さりとて御家人制を崩壊させることもできない。  源氏将軍家の消滅後、御家人たちの主、「鎌倉殿」をいかに再生し、実質的な幕政運営の仕組みをどのように構築するかが最も重要な課題であった。 (続)

*式目の詳細についてはタイトル横の「検索フオーム」~(貞永式目)で検索参照してください。

平成二十六年甲午・丙子・甲午
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