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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏  ⅩⅣ  執権・泰時

尼将軍政子の死後、泰時は政子・義時の同母弟で叔父の北条時房≪houjixyou・tokifusa)を連署に迎えた。  訴訟の判決や所領の安堵などを行う幕府の公文書に、執権と並んで署名する立場から連署の名があり、執権に准じる最重要ポストが新設された。
北条泰時の援助によって建立された鎌倉大仏(現在は露座)・(鎌倉・長谷)
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泰時・時房を軸に、世代交代を果たした幕府官僚グループと三浦義村らによって構成される合議体制をスタートさせるべく、懸案となっていた三寅の元服と正式な将軍就任に動き出す。  頼経(yoritune)と名を改めた三寅は朝廷から征夷大将軍に任じられた。

鎌倉殿の地位を継承し将軍となった頼経は、同時に公家社会における摂関家の分家として位置づけられれた格好だ。 もちろん本姓は藤原(fujiwara)で変わっていない。  源家将軍と区別するために、摂家将軍(setuke・siyougun)と呼ばれる。

執権・泰時(幕府)は将軍・頼経に源頼家の娘(竹御所)とを娶せて源家将軍との接続をはかる一方、頼経が摂関家として公家社会に有する政治的地位を最大限に利用した。  承久の乱以降、地頭問題のみならず、公家領荘園の安堵や訴訟の要求が鎌倉に持ち込まれる様になり、摂関家で一定の官位を有する貴族としての頼経から書状を出す形を採った。

*御所移転の意味

治承四年の入部以来、頼朝は鎌倉の東西軸に沿って大倉の地に御所を構え、鶴岡八幡宮や永福寺・勝長寿院といった寺社や幕府の諸機関、有力御家人の邸宅なども鎌倉の北辺に建設されてきた。  考古資料と文献史料の一致するところから、都市鎌倉の中心が大倉とその周辺にあったことは明らかだ。

第四代の鎌倉殿にして将軍となった藤原頼経は、元服と同じ時期に大倉御所から新御所に移っているが、その場所は頼朝以来の中心地大倉から外れるものだった。  南北路の若宮大路と小町大路に挟まれた宇都宮厨子(utunomiya・zusi)に面した場所に新しい将軍御所がきわめて短期間に造営されたのである。

御所移転の理由は、若宮大路に接する執権・泰時邸に隣接する地に新将軍を住まわせる為である。 そして十二年後の嘉禎二年(1236)に御所はさらに移転して、若宮大路御所と呼ばれるが、その実態は泰時邸の敷地内に取り込まれたものだった。

*行政単位 「保」・・・・・「吾妻鑑」の記述。末端行政を担当する行政システム。

(続)

平成二十六年甲午・丙子・丁酉
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