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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 ⅩⅤ  鎌倉中の成立

宇都宮厨子御所へ移転した直後に開かれた評定会議は、将軍御所を警固するシステムの強化策を決定した。  すでに頼朝段階からある京都大番役に加えて、鎌倉番役が東国15ヵ国の御家人達に輪番で賦課される役として創設されました。
古代・鎌倉郡衙跡(現・市立御成小学校校門)(鎌倉・御成町)
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警固役の武装御家人に護られた将軍御所と執権邸が若宮大路に面して立地し、評定会議のメンバーなどの屋敷もその近隣に配された。 若宮大路や側溝も徐々に整備され、丈尺制にもとづき一定区間を割り振られた工事の負担が多数の御家人たちに賦課されていくと、都市鎌倉の中枢部を律する軸線は変容せざるを得なかった。

都市鎌倉の中心部はこうして南北軸へと変質を遂げてゆくことになる。  同時に、鎌倉の都市域を区画する境界認識が定着するのも執権・泰時の段階であった。 そのことに多くの役割を果たしたのは四角四境祭(sikaku・sikiyousai)だと考えられる。  それまで京の都でしか行われていない四境祭を実施するには、陰陽師が必要であるが、先の実朝暗殺を機に後鳥羽上皇から勅勘を受けた鎌倉滞在の陰陽師を、幕府は召し抱えていたのです。

東西南北の境界は北・(山之内・小袋坂)南・(小坪)東・(六浦)西・(稲村・固瀬河)の境界で区画される領域の内側が、陰陽師によって祓い清められた。  都市鎌倉の境界認識は、この四角四境祭を通じて視覚化され、御家人以下の鎌倉にかかわる人々に広く共有されていったと思われます。  この都市域こそが、幕府によって「鎌倉中」と呼ばれるようになる。   幕府の論理では、東国の「首都」機能を持った領域として標榜すべき、鎌倉中の誕生である。

*切通しの開通

鎌倉の北境とされた山之内は、和田合戦で北条義時が手に入れた山之内荘にあたる。  北条泰時はこの山之内の常楽寺(jiyourakuji)(鎌倉・大船)あたりに別邸を設けた。孫の時頼になるとさらに邸宅を構えられて、北条得宗家の本拠地となる。 寄合(yoriai)と呼ばれる得宗中心の会議が行われる場も、この山之内の邸宅である。

泰時は、東・西・北を山に囲まれた鎌倉中とその外側の世界をつなぐ道として、仁治年間に(1240)六浦道と山之内道を開いた。既存の切通しの補修とあわせた新しい陸路の整備だという。  六浦道は鎌倉の外港六浦と結ぶルートで、朝比奈切通しの開削をともなっている。  一方、山之内道は、北条時頼以降の巨福呂坂(kobukurosaka)や亀ヶ谷(kamegayatu)の切通しに発展していくもので、鎌倉の北境にあたる山之内荘と鎌倉中心部とのアクセスを容易にするルートとなった。   

*過渡期の政治

北条泰時が没したとき、人々は父母を失ったように悲しんだという。 公平な政治を行い、末代には珍しい人物だともいわれる。  泰時がこの様に好意的な評価をされるのはなぜだろうか。「御成敗式目」を制定し、公平な裁判を行った事などが考えられる。

泰時の時代は、執権政治の全盛期とされる。それは承久の乱後、鎌倉幕府の支配が比較的安定した時代であった。乱後の処理で、三上皇を配流した反省から、泰時は穏やかな政治を心掛けた。  しかし、彼に先立つ政子・義時の時代は、強権による政治が行われていた。 そのあとを受けた執権泰時の時代は、執権の権力が確立していたとはいえない。執権の交代時にしばしば起こる紛争は、北条一族の中に、本家である得宗家に反対する分子がいたためだし、三浦氏など有力武士のなかにも、北条氏に敵意を持っている者がいた。 泰時はそれら勢力との摩擦を避ける事に努め、一応は成功していた。

しかし、後述することになるが泰時の後にくる、孫の時頼(tokiyori)は強権政治家であり、得宗専制政治は時頼の時代に始まったとみられる。  鎌倉幕府、あるいは北条氏の政治は、独裁・専制の連続であり、それが幕府政治の体質であって、泰時の時代は、鎌倉殿の独裁から、得宗専制へ移行する過渡期に生まれた例外のように思われる。   (続)

平成二十六年甲午・丙子・庚子
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