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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 ⅩⅥ  得宗専制政治へ

鎌倉幕府が後嵯峨天皇の即位を強行した仁治三年(1242)6月、北条泰時は没した。 さきに泰時の次男・時実(tokizane)は家来に殺された。十六歳であった。  長男時氏(tokiuji)は二十八歳で病死した。    こうして、泰時には後継者の息子がなくなり、跡を継いだ孫の経時(tunetoki)は、十九歳で執権となった。
鎌倉幕府第三代執権・北条泰時菩提寺・常楽寺(鎌倉・大船)
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四代執権北条経時は、将軍九条頼経(kujixyou・yoritune)を退け、子・頼嗣(yoritugu)を将軍とした。ところがその翌年執権経時は病に侵され執権職を弟時頼(tokiyori)に譲り閏四月に逝去した。  新執権時頼もまだ二十歳であった。

北条時頼が執権を継いだのは、経時の二人の息子がまだ幼かったためだと「吾妻鑑」は記している。  隆政(riyuusei)・頼助(raijiyo)の二人は、六歳・三歳であった。  しかしいずれも時頼によって出家させられてしまい、経時の子孫は永久に執権にならなかった。  北条一門の家督(得宗)の地位は、経時の系統から、弟時頼の系統に移ったのである。

暫くすると鎌倉は騒がしくなった。  北条一門の名越光時(nagoe・mitutoki)が前将軍頼経と共謀し、時頼を討とうとした計画が疑われた。  経時をも僧侶に命じて呪詛し、早世させたというのである。  しかも頼経は京都の父道家(fujiwara・mitiie)と共謀していたと云われ、評定衆・千葉秀胤(tiba・hidetane)も関与していたようだ。  光時の弟時幸(tokiyuki)は自害した。  幕府は光時を伊豆に配流し、秀胤を上総に追い、頼経を京都に送還した。  いわゆる「宮騒動」です。

*源氏と三浦氏

鎌倉幕府の政争に九条家が関わったのだから、九条家が幕府の制裁を蒙るのは当然だが、幕府はそれに留まらず朝廷の政策に関与すようになった。明らかに得宗専制の一環と云えよう。

追われた前将軍・九条頼経を京都まで護送した者の中に、三浦光村(miura・mitumura)がいる。  頼経が六歳で将軍になった時からの近習18名の一人として選ばれ、将軍の側近として仕えた。  この近習を選んだのが光村の父・三浦義村(miura・yosimura)であり、泰村・光村・家村ら三人の息子が近習に加えられている。さらに頼経外出の際、供奉人に武勇の優れた者が少ないとして、資村(sukemura)・胤村(tanemura)を推し、傍若無人ぶりを非難されたが、三浦氏は頼経にとりわけ親しかったようだ。

三浦氏は相模国三浦郡を開発し、衣笠城(kinugasajiyou)・(横須賀市)を本拠とし、「三浦介」として在庁官人をを世襲してきた雄族である。  前九年の役の戦功として、源頼義から三浦郡を与えられ、はじめて「三浦」を称したのが平 為道(taira・tamemiti)と伝わる。 さらに為道の子・平 為継(taira・tametugu)は、後三年の役に頼義の子義家の下で従軍した記録が残る。

***在庁官人・・・・・中央から派遣される国司が現地で採用する実務官僚の事。 

(続)

平成二十六年甲午・丙子・癸卯
**将軍にならなかった北条氏ⅩⅥ  得宗専制政治へ

鎌倉幕府が後嵯峨天皇の即位を強行した仁治三年(1242)6月、名執権と呼ばれる北条泰時が没した。  先に泰時の次男・時実(tokizane)
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