FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏(ⅩⅦ) 三浦氏・滅亡へ

源義家(八幡太郎)の曾孫・源義朝は、  鎌倉を拠点に活躍していたが、天養元年(1144)、郎党を率いて、高座郡の伊勢神宮領・大庭御厨(ooba・mikuriya)鵠沼郷に乱入した。   その中に三浦為継の子義継(yositugu)、その子義明(yosiaki)の名が見える。 そして義明の子義澄(yosizumi)は、平治元年(1159)、義朝に従い、平治の乱に参加している。
源頼朝・法華堂跡…三浦氏終焉の地(宝治合戦)
s-2010_1011_103140-DSC01041.jpg
この様に観てくると、源氏と三浦氏との関係は数代にわたる緊密なものであり、頼朝一代だけの関係にすぎない北条氏をはるかにしのぐものであり、豪族としての規模・格に於いても、東国武士のなかで三浦氏に勝るものは少なかったのではなかろうか。

頼朝挙兵の時、石橋山に参陣したが間に合わず本拠地の衣笠城に引き上げ、当時平家方の畠山氏らの襲撃を受けた、衣笠城に立て籠った八十九歳の三浦義明は頼朝の挙兵を「貴種再興」と喜んだという。・・・「老命を武衛に投じて、子孫の勲功を募らんと欲す」・(吾妻鑑)として衣笠城に留まり討ち死にした。

挙兵以来、頼朝を助けた功績は北条氏に劣らず、とくに義明の死という大きな犠牲を払っているのである。  頼朝が鎌倉に幕府を置いた理由のひとつが三浦氏の本拠地が近く、その軍事力を頼ったとも考えられる。 

三浦氏が重要な決断を迫られたのは、義澄(yosizumi)の子義村(yosimura)の時代である。  建仁二年(1202)には娘を北条泰時の妻として、北条氏との関係を緊密なものにした。  その後、義村は四度にわたり、北条氏への叛逆を勧められている。

まずは建保元年(1213)、同族の和田義盛(wada・yosimori)が北条義時に反抗して挙兵した際、義村は義盛に同心して起請文まで書いたが、変心して義盛と戦い、和田氏を滅ぼしてしまった。  この裏切りの為、義村は「三浦犬は友を食らう」と罵られたそうだ。

次に承久三年(1219)、鶴岡八幡宮別当・公暁kugiyou)が将軍源実朝を殺害した後、使者を義村の許に遣わし、自分を将軍にするように求めたが、義村は義時に通報して、公暁を討ち取ってしまった。

第三に、承久の乱では、在京中の胤義(taneyosi)が後鳥羽上皇方に誘われ、さらに胤義は兄の義村を味方につけ、義村に義時を討たせる秘策を後鳥羽に提案している。  後鳥羽につくことを進める胤義の書状を受け取った義村は、ただちに義時の許に赴き、忠節を誓った。

第四に、北条義時の没後、妻の伊賀の方の生んだ北条政村≪houjixyou・masamura)を執権にしようとした事件にも誘われたが、尼将軍・北条政子の説得によって、義村は屈服し、北条泰時の執権就任に同意した。

以上、四つの事件から言えることは、北条氏(執権)に敵意を持つものは、しばしば三浦氏に期待を寄せている事だ。それは三浦氏が北条氏に対抗しうる実力を持っており、しかも敵対する意思をも持っていたと思われていたことを示している。 実朝暗殺事件では、実朝と共に義時殺害を目論んでいたが、義時の急病で義時を討ち漏らしてしまった為、公暁を主犯として、隠滅を図るため殺害してしまったという説が有力。  (続)

平成二十六年甲午・丁丑・丁未
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。