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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏(ⅩⅧ)  宝治合戦

三浦氏は周囲の期待に応じなかったばかりか、しばしば共謀者を裏切り、結局は北条氏に協力し、北条氏権力の確立に手を貸している。  しかし、北条氏にとっては不気味な存在であり、放置しておくには危険な存在であった。
幕府五代執権・北条時頼の寄進となる鐘楼(国宝)   現在も重要な行事には使われている。
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宝治元年(1247)、前年の宮騒動の余燼が収まらぬまま、新たな騒動の予感が現れていた。  五月、将軍九条頼嗣(kujiyou・yoritugu)の妻が没した。  「檜皮姫」といい、執権時頼の妹なので、時頼は軽い忌服のため三浦泰村邸に移った。三浦氏に敵意のないことを示すための行動で、合戦を回避すべく努めた。 ところが三浦一族に不穏な動きがあるとの情報に、自邸に戻った。  三浦泰村は恐縮して陳謝した。  得宗に対する態度で言えば、三浦氏の家長である泰村は穏健派。弟の光村は敵対派であった。

鎌倉は次第に騒がしくなり、時頼から泰村に書状が届けられ、討伐の意思がない旨が伝えられた。  泰村もこれを喜び返書を書いている。 これに対して異を唱えたのは安達景盛「城」(adati・kagemori)である。  その娘は松下禅尼(matusitazenni)で時頼の母である。 したがって景盛は時頼の外祖父にあたる。 景盛は出家して高野山にいたが、下山して鎌倉に戻り、三浦氏を討つべしと時頼に進言した。 

頼朝旗揚げ時、側近中の側近であった安達氏は源家滅亡後、北条氏、三浦氏などの有力御家人の風下に立ち影響力の低下が目立っていた、景盛はこのまま時頼が三浦氏との安定を計れば、三浦氏の影響力が増して、禍根を残すと訴えた。 子の義景(yosikage)孫の泰盛(yasumori)に泰村館を攻撃するよう命じた。

安達氏の進言に答えてこれまでの態度を改め、金沢実時(kanazawa・sanetoki)に幕府を警備させるとともに、弟の北条時定(houjiyou・tokisada)に命じて泰村館を攻めさせた。  居館を攻撃され焼かれてしまった泰村は頼朝の法華堂に逃げ込んだ。  永福寺(youfukuji)辺りで戦っていた弟の三浦光村(miura・mitumura)も合流し、一族は源氏に永らく仕えてきた名門にふさわしく、頼朝の慰霊を前に、往時を語りながら自害したと云う。

頼朝法華堂で自害した三浦一族は五百人以上だといわれる。  時頼はさらに上総に討手を差し向け、宮騒動で追放されていた泰村の妹婿・千葉秀胤(tiba・hidetane)討った。 こうした一連の事件を「宝治合戦」と呼んでいる。

三浦氏を滅亡させた時頼は京・六波羅にいた北条重時(houjiyou・sigetoki)を鎌倉に下し、連署に任じた。 年長で、一門の長老格であり、良き相談相手として期待したのである。  この人事は三浦泰村の反対で実現しなかったものです。 こうして執権に就任して一年余りの間に、時頼は強力な反対勢力を武力によって制圧し、大勢を強化した。  (続)

平成二十六年甲午・丁丑・庚戌



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