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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏(ⅩⅨ)  親王将軍を迎える

建長三年(1251)、幕府は宝治合戦の残党、了行法師(三浦氏)、矢作某(千葉氏)を謀反の疑いで捕えた。  同時期に将軍九条頼嗣を廃して、後嵯峨上皇の皇子・宗尊(munetaka)、恒仁(tunehito)のいずれかを新将軍として鎌倉に迎えたいと朝廷に申し入れた。当時の幕府が置かれた若宮大路幕府跡(鎌倉・雪ノ下)
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幕府は多年にわたる九条家との関係を断絶し、親密な後嵯峨の皇子を鎌倉に迎えることにしたのである。 という事で宗尊親王が選ばれ京都を出発、征夷大将軍に任じられた。

かつて承久元年(1219)、源実朝が殺害されたとき、幕府は後鳥羽上皇の皇子の下向を願ったが、後鳥羽は皇子が将軍になることは、日本国の二分を招くとして、皇子を下向させなかった。 三十年の後、皇子の下向が実現したのであるが、後鳥羽の言に従えば、それは日本国の二分、すなわち、東国の独立を促進する結果となった。

*城氏(安達)の動向

北条時頼の父時氏(tokiuji)は、時頼が四歳の時に他界している。 時頼の成長には、母の影響が大きかったと思われる。母の松下禅尼(matusitazenni)は賢夫人として知られている。(徒然草)    松下禅尼は城景盛の娘である事から外祖父として 時頼を支えた有力勢力の一つとして、何よりも挙げたいのは、城氏(安達氏)です。

城氏の素性は明らかでないが、さほど有力な豪族であったとは思えない。  頼朝以来、鎌倉幕府の基盤となったのは、豪族的領主などと呼ばれる東国の大豪族とされ、広大な所領と、それを基盤とする巨大な軍事組織で特徴づけられてきた。  しかし、頼家の時代に合議を命じられた十三名の御家人を見ても、文句なしにこの条件に当てはまるのは、三浦義澄と同族の和田義盛くらいであって、安達盛長(adati・morinaga)・比企能員(hiki・yosikazu)、さらに北条時政までも、さほどの大豪族とは思われず、むしろ頼朝との関係が深かったものが選ばれている。 城氏の祖である安達盛長も、その典型的な例である。

平治の乱に敗れた頼朝が伊豆に流されたとき、乳母の比企尼(hikinoama)は、京都から武蔵国比企郡に下り、女婿の盛長(morinaga)らを伊豆に遣わし、頼朝に近侍させた。  盛長の妻丹後内侍(tangononaisi)は比企尼の娘であり、二条天皇に仕えていた。

頼朝が挙兵すると、盛長は源家累代の御家人を味方に招く使者として各方面に派遣された。 早くから親しくしてきた盛長は、頼朝・政子にとって、気の置けない家来であっ多と思われ、後にしばしば甘縄(amanawa)の盛長邸を訪ねている。   (続)

平成二十六年甲午・丁丑・癸丑
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