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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 ⅡⅩ  城氏(安達氏)の動向続き

頼朝の死後、幕府内では、将軍頼家を推す比企氏と、弟の千幡(senman)(実朝)を推す北条氏とが対立。  城(安達)景盛の母は比企氏の出であり、本来景盛は頼家・比企方に付くべきところ、政子との親密な関係を通じて、千幡・北条方についた。
安達氏(城氏)の祖、安達盛長邸跡・現甘縄神明社・・(鎌倉・長谷)
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多くの鎌倉武士は、幕府の内紛の中で、岐路に直面し、選択を迫られるが、景盛は常に幸運で賢明な選択をしている。  安達氏は頼朝の側近から、北条氏の盟友に巧みに転換することが出来たのである。

源実朝が暗殺されたとき、景盛は出家したとみられるが、それほど密接な関係があったのだろうか。 「吾妻鑑」等によれば実朝側近の動きをしていたようだ。  建保六年(1218)、順徳天皇に皇子(懐成親王)(kanenari)が生まれたとき、景盛はお祝いの為京都に遣わされた。これらの事から、景盛が実朝の厚い信頼を受け、そのうえ、都の事情に通じており、素養のある人物であったことが解る。

景盛が重用されていたことを示すのは、建保六年、実朝の推薦で秋田城介(akita・jiyounosuke)に任命されたことである。秋田城介は蝦夷経営の為、秋田城に常駐した出羽介(dewanosuke)であり、久しく空職になっていた名誉職であるが、景盛は大いに喜んだという。   「吾妻鑑」

その後、安達氏は秋田城介を世襲し、秋田城の由緒で城氏を称した。   承久三年正月、法華堂で実朝三年忌の追善供養を営んだが、その奉行は景盛と二階堂行村が務めた。  景盛は出家して大蓮房覚智と号し、高野山に籠った。   正確な時期は不明であるが、景盛の高野山における事績として、金剛三昧院(kongou・sanmaiin)の創建が目立つ。

景盛は出家後も世俗を捨てず、高野山のみに住んだのではなく、たびたび鎌倉に現れている。この様な出家は当時は珍しくなく、嫡子義景はまだ十歳、景盛はまだ世を捨て得る状況ではなかった。

その世俗活動の一端を見ると、承久三年、承久の乱の際、政子が頼朝の御恩を説き、御家人たちの決起を促したことは「吾妻鑑」などに詳しいが、それについて、政子が直接御家人に呼びかけたとする資料もあるが、景盛が政子の言葉を取り次いでいる。  さらに、宝治合戦では、子の義景、孫の義盛を叱咤し、時頼を説得し、北条・三浦の和解を阻止して、三浦氏を破滅に追い込んだのは景盛であり、これが出家者の所業かと訝るほどだ。

とくに、承久の乱後、景盛の娘が北条時氏(houjiyou・tokiuji)(経時・時頼の父)の妻となったことは重要である。  時氏は僅か二十八歳で没し、執権職に就いていない。  景盛娘は出家して松下禅尼と呼ばれた。夫婦生活は七年程度にすぎなかったが、時氏は執権泰時の嫡男であり、将来は執権を予定されていた人物であったし、夫妻の間に生まれた経時・時頼は相次いで執権となり、女子の檜皮姫(hiwadahime)は将軍の室になっている。  このことは城氏と北条氏との関係を一層緊密にし、執権・将軍の外戚としての城氏の地位を飛躍的に向上させた。
 (続)

平成二十六年甲午・丁丑・丙辰
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