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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏(ⅩⅩ)  城氏(安達氏)の動向 続き

次に、景盛の子義景(yosikage)に関しては、垸飯(ouban)について考えたい。

*垸飯・・・・・年始に臣下の者が将軍を自邸に招き、食事を献上する儀式。
鎌倉幕府三代執権・北条泰時菩提寺・・粟船山・常楽寺山門(鎌倉・大船)
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執権・泰時、経時、時頼の時代、城氏では義景の時代に、特に重要な行事として行われたようだ。  垸飯を主催したのは前記三執権をはじめ、北条氏ばかりであって、例外的に足利義氏(asikaga・yosiuji)が一度あるだけである。  垸飯に次いで、剣、調度(弓矢)、などを献上する役がある。この順番は各家の格の序列を示すものと思われる。 剣の役では北条一門のほか足利氏が五回、三浦氏が四回、毛利氏が一回と記録される。  義景は調度を六回勤めているが、剣の役を勤めた事は無い。  このような点から家格は北条・足利・三浦・城の順と考えられる。  ただし、足利は幕政にあまり関与していないから除くと、北条氏に次ぐナンバー2の三浦氏が、ナンバー3の城氏、にとって目障りなのは当然だったでしょう。

城義景が初めて評定衆に名を連ねたのは延応元年(1239)の事。  三浦義村が没した為の交代であり、義村・泰村父子が評定衆に並んでいたのが、三浦泰村・城義景が並ぶことになる。 同時に引付(hikituke)の改革に功績をあげ、新設の五番引付頭に任命されており、官僚的武士の性格が強かった。

引付・・・・・裁判の迅速化をはかるため、御家人の所領に関する訴訟を担当する機関。

評定衆の正式の会議に代わり、執権・時頼の屋敷で「内々沙汰」・「神秘沙汰」(sinnpisata)「寄合」(yoriai)などという少人数の会議が開かれ、重要事項がそこで決定された。 得宗専制政治の現れだとされるが、将軍頼経を更迭した政変に関する二度の神秘沙汰のメンバーを見ると、北条一門三名(時頼・政村・実時)、御内人二名(諏訪盛重・尾藤景氏)、外様御家人二名(城義景・三浦泰村)であり、 三浦は追放されたので、城氏こそが得宗の信頼する御家人であったことになる。

**得宗専制へ

安達氏(城)はもと頼朝の側近であったが、頼朝没後は、政子との親密な関係を通じて北条氏に接近し、そのもっとも信頼できる盟友となり、婚姻関係をも結び、北条氏の外戚の地位をを占めるにいたった。  鎌倉幕府の歴史は、北条氏が権力を掌握する過程であるが、城氏は常に北条氏と提携し、その制覇を助けてきた。

得宗専制政治の成立には、霜月騒動(simotuki・soudou)を発端とする説が一般的である。  北条貞時(houjixyou・sadatoki)が執権になって間もなく起こったこの事件によって、一般御家人勢力を代表する安達(城)泰盛(adati・yasumori)と、得宗被官勢力を代表する平頼綱(taira・yorituna)との対立が、後者の勝利に終わり、ここに得宗専制政治が確立したとされる。   (続)

平成二十六年甲午・丁丑・己未
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