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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 ( ⅩⅩⅠ)  宝治合戦

北条時頼の意に反して、軍を出動させてしまった安達景盛以下の御家人たちによって三浦泰村邸は包囲された。時頼もここに至っては合戦を決意し、軍を泰村邸に向けた、永福寺で奮戦していた弟の光村に使いが出され、頼朝の墓前に集まり、泰村以下三浦勢276名を含む500人余りが自刃して果てたという。
法華堂近くの源頼朝墓所(鎌倉・雪ノ下)
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この事件に巻き込まれた人々の中には毛利、大隅、宇都宮、春日部、関政泰らとその一族の名があった。  関政泰は妹が三浦氏に嫁いでいた縁で泰村の陣に加わった。 また毛利は、一時は時頼に加勢したが、泰村の妹である妻に叱責され、最後には三浦氏と運命を共にした。  こうして親類の縁などにより三浦方についた多くの人々がいるものの、佐原氏の一族のように、三浦氏方につく者と北条方についた者とに別れた家もあった。  一方、幕府御家人の中にも、北条氏や安達氏の専権に反発する勢力もこの合戦に加わっていた。

*佐原氏・・・・・三浦氏の一族で、現在の横須賀市・佐原の地名が残る?

さて、下総・上総を領した千葉氏一族の場合はどうでしょう、当時の下総千葉氏の当主は千葉頼胤(yoritane)で、僅か九歳でした。千葉氏では当主の早世が続き、年若い頼胤、叔父の泰胤(yasutane)が補佐するような体制となっていた。それに対して、上総(千葉)秀胤(hidetane)は権力を維持していた。  秀胤は滅亡した上総介広常(hirotune)の遺領を引き継ぎ、三浦泰村の妹を娶っていた。そして千葉一族の中で唯一、評定衆にも名を連ね、三浦泰村らと共に将軍頼経の側近であった。 しかし、宮騒動の際に評定衆を罷免され、上総に蟄居させられていたため、宝治合戦には直接参加していない。

しかし、宝治合戦の余波は、上総に蟄居していた上総秀胤にも及んだ。  幕府は秀胤の追討を大須賀胤氏(oosuga・taneuji)と東素暹(tou・sosen)に命じている。 ほかに上総国の御家人らが数多く加勢にまわり、合戦となったが秀胤と嫡男・時秀、次男・政秀、三男・泰秀、四男・秀景らは心静かに読経を行い自害したという。

この上総千葉氏の滅亡のくだりは、宝治合戦の直後の事件として「吾妻鑑」が特に詳しく述べている。 おそらく上総千葉氏の追討は大きな事件として何らかの記録が残されていたのであろう「吾妻鑑」はそれを参照した形跡が見られる、「吾妻鑑」の表現が文学的であり、合戦の陰惨さが欠如しているからである。  三浦氏は、本来安房・上総に拠点を有しており、三浦泰村は宝治合戦に際してもこの両国から甲冑を運び入れたりしている。

その背景には上総千葉氏との連携があったことは間違いない。 その上総千葉氏を滅亡に追い込むことは、北条時頼にとって重大な課題であったに違いない。  千葉氏の多くの一族が三浦方として掃討されていることは、北条氏にとって房総方面への足掛かりとして重要であった。  まさしく、これ以後上総・安房方面には北条氏の所領が増し、北条氏の基盤と化してゆきました。   (続)

平成二十六年甲午・丁丑・丙寅

***今年一年間の来訪を感謝いたします、来る新年も皆様にとってより良き年でありますようにお祈り申し上げます。新しい未(ひつじ)年も「鎌倉の石塔」をよろしくお願いします。  ゆるりとした更新になりますが。・・・・・mituuroko
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